ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ユービキタス大学の生涯学生

現代社会を生き抜いていくために必要とされる知力はどのようなものであり、それをどのように獲得すればいいのかという視点から論じている。私は世のいわゆる『教養論』のほとんどは、昔をなつかしむジイサンたちの繰り言にすぎないと思っている。論者のほとんどは『現代的な教養』(現代社会を生き抜いていくために必要な基本的知識と基本的技ーエピステーメーとテクネー)という観点からすると、彼ら自身ほとんど教養ゼロ(現代的教養と古典的教養の間にも若干の共通部分があるから、全くゼロとはいわないが)としかいいようがない連中で、『現代的な教養』を論ずる資格がない人々だと思っている。」(p.26)

手っ取り早くいえば、大学が高等教育機関として独占的な地位を占めていた時代は終ったということである。」(p.27)

エピステーメー(知識)に関していえば、大学の授業が提供してくれるものより、世にあるさまざまのメディアを介して提供される情報のほうが質量ともにはるかに上である。」(p.27)

現代の基本教養を身につけるためには、その何倍もの書物を読まなければならない。何倍もの知識を書物以外のさまざまのメディアを通して獲得しなければならない。そういう意味において、現代社会は、大学による高等教育独占時代から、高等教育ユービキタス(ubiquitous−いたるところにある。どこにでもある)時代に入ったと考えるべきなのである。」(p.27)

誰にでも、ユービキタス大学で学ぶ道は平等に開けているからである。大学における教養教育が総破綻という現状況にあっては、大学側がお仕着せ的に提供してくれる教養コースなどほとんど頼りにならない。しかしユービキタス大学が提供してくれる教養コースは、どんな人にも消化しきれないほど内容が豊富にある。つまり、どんな人にも最高の教養を身につけるチャンスが平等にあるということである。」(p.28)

ユービキタス大学においては、自分で自己を律さないかぎり、怠け者はたちまち落伍していく。一般の大学においては、教養は与えられるものとしてあるが、ユービキタス大学においては、教養は自分で獲得するものとしてある。」(p.29)

(以上、立花隆東大生はバカになったか:知的亡国論+現代教養論文藝春秋2001年)からの引用)

しかしこの本は、既に8年も前に出版されたのですから、これも古い情報となっていることでしょう。特に、「ユービキタス」なることばは神学用語から来ていると、某大学の講演会で(誇らしげに)聞いた時には、うちの主人いわく「そんなの、常識じゃないか」。確かに、日経新聞には、随分前にそういう話が掲載されていました。私の周囲に限るならば、文系というのは、本当に遅れに遅れた世界であることを、よくわきまえていなければなりません。
もっとも、この引用文で言いたかったのは、それではなく、私も結婚以来このかた、ユービキタス大学の学生として過ごしているということです。本当に、下手な大学の講義をダラダラ聴いているよりは、ずっと効率的に主体的に勉強できるのが、このユービキタス大学。
私の場合は、病気はしないものの、目が疲れやすいのと睡眠時間は7時間必要、という贅沢なタイプのために、フルタイムの職務では時間のやり繰りが大変です。人によっては、正規職に就くということは、第三者の目によって合格とみなされたという判断基準が適用されたのだから、勝手にユービキタス大学生を名乗ってみても、意味はない、と主張するかもしれません。けれども、私の人生は私のもの。自分の能力に合わせて、勉強したいものをどんどん勉強していくのに、第三者の目など必要ないと思っています。
まだ勉強したいもの、読みたい本は、たくさんあります。2005年8月にハーバード大学のCO・OPへ行った時には、天井まで本棚があって、まるで本の家のようで、寝袋を持って1週間ぐらい泊まりたかったです(参照:2007年12月12日付「ユーリの部屋」)。うちの主人でさえ、そこで英語を勉強していた時期があったぐらいですから、私だって遠慮することはないと思います。
主人が勧めてくれたには、「今は、英語がわかるならば、世界中の主要大学から、インターネットで講義を探して、登録して勉強するっていう手もあるよ」。そうなんです。これで、ヘブライ語ギリシャ語の講義を見つけました(参照:2008年12月21日付「ユーリの部屋」)。ただ、時間の割り振りから、今はペンディング状態です。
もう一冊、先日の東京滞在中に三鷹の書店で見つけた本で、なるほどと感銘を受けた一文があります。

自分の力で暮らしている家の人でないと困る。能力が無い人はだめなんだと一般論として言っていた」(p.40)
橋本明美智子さまの恋文新潮文庫2007年))

これは、現天皇陛下が、お后候補として条件を述べられた際のお考えだそうです。
そこで、次元は全く急降下するのですが、この文を読んで、なぜか私、急に自信が出てきたんです。
そうだ、私だってこれまで、夫と二人で、一切、両家の親にも頼らず/頼れず、ここまでやってきたじゃないか、と。若年性の進行性難病を抱えつつも毎日必死に働き、それでお金を稼いで、二人の生活を成り立たせています。私も、健康ノートを書いたり、平日に役場や保健所と連絡を取ったり、薬をもらいに行ったりしながら、家事をこなし、少しでもこれ以上、病気が進行しないように知恵を絞り、工夫して暮らしています。どこからも研究費を「獲得」したりせず、若い頃に汗水垂らして働いていた頃の貯金をもとに海外リサーチを続け、国内では、自宅でできる不定期のアルバイトから、交通費やコピー代や本代や学会費などを捻出し、毎年必ず発表するという課題を、かれこれ10年以上、続けています。自分達の分の範囲内で、責任を持って暮らして行くには、当座はこれしか方法がないからです。
世の中というのは、しかし世知辛く、事情も知らずに「今度の科研費さぁ」「あなたね、話はおもしろいけど、だから、いつまでたっても大学の先生になれないのよぉ」などと、目の前でわざとらしく何度も言いふらす人もいて、全く憤慨していました。それなら、それだけの成果を披露していただきたいものです。こちらから税金を取っている以上、こちらにも権利があると思います。
ちなみに、こういう見せびらかしの態度を示すのは、決まって、私と同世代かそれより若い女性達です。男性の先生方は、私の限られた経験では、そういうせせこましいことをおっしゃいません。恐らくは、奥様に手伝ってもらいながら、研究を進めてこられたという先生方が多いからでもないか、と思いますが。(第一、こちらは、初めから、一生研究して食べていこうなんて思っていないのに)(このような状況下で、どうやったら両立ができるのか、どうぞ教えてください)と口まで出かかっていたのを、ようやく飲み込むような思いを何度もしてきました。
一般化は無理としても、女性が社会進出すると、より社会が豊かになるどころか、どうしてこのように馬鹿げた発言が出るようになるのか、ぜひとも説明していただきたいものだと思います。いい年をして結婚もせずに親の家に住み着いて、食事まで作ってもらっているのに、あるいは、結婚したとしても、夫婦別居をずっと続けているとか、自分が産んだ子の面倒まで親や他人に見てもらっているのに、「社会的地位」を得たからといって、どうしてこちらをけなすようなことが平気で言えるのか。
閑話休題
しかしながら、さすがは、人の上に立つよう生まれつき訓練されている方のお考えは、卓見なのですね。すなわち、「地位」ではなく、「自分の力で暮らしている」ことが重要なのだ、と。
ありがとうございます!これで、なぜだか急に、自己肯定感というのか、力が沸いてきました。
さて、今夕は、ユービキタス大学の講義がありますので、自主出席します。大阪クリスチャンセンターで、佐藤全弘先生の「第二ヴァチカン公会議」に関するお話です。ファイルを作って、楽しみにしています。カトリックの参考書も三冊持参の上、もしできるならば、いろいろ質問もさせていただければと思っています。