カール・ヒルティの言葉から
・自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは初学者の仕方であり、自分をも他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。(p.49)
・われわれがわざとユダヤ教をここに挙げないのは、われわれはこの教えをキリスト教の自然的、歴史的な根底として、尊敬と愛情とをもって見るからであり、また、不自然に中断されたその発展は、なお将来必ず回復するであろうと信ずるからである。(pp.52-53)
・声高い非難や嘲笑には、自分の内心の動揺をひそかにごまかそうとする意図よりほかに何物もない場合がしばしばある。(p.63)
・きみがある高貴な人を訪問するなら、彼は不在であるかも知れないこと、面会を謝絶されるかも分からぬこと、きみの鼻先で扉が閉ざされるかも知れないこと、また彼はきみにあまり注意しないかも知れないことを、あらかじめ覚悟しておくがよい。(p.85)
(抜粋終)
『幸福論 第二部』ヒルティ(著)草間平作・大和邦太郎(訳)岩波書店
・立派な軍人がしばしば最もすぐれたキリスト者であるのは、決して偶然ではない。彼らは共にきわめて単純な人たちだからである。また実際、キリストおよびその使徒たちの最初の、かつ最上の信者たちもそのような単純な人々だったのである。(p.72)
・怒りはたいてい隠れた恐れにすぎないからだ。怒る人は勇気のある人ではなくて、恐れているのである。そう考えて十中八九まちがいはない。(p.80)
・それぞれの個人についてその人間を知る上で一つの大切な点は、その素性を知ることである。ことに女性は、ほとんど例外なく、その家庭の性格を承けつぐものであり、息子は母か祖母の性格を伝えるのが普通であるが、娘はむしろ父系を承けるものである。(p.96)
・高い教養の人が、自分よりも教養の程度の低いものと結婚するとしたら、それも大きな誤りであり、自分の子孫に対して過ちを犯すものだといってよいくらいである。その人は、その結婚によって一段落だけあと戻りしたことになる。(pp.96-97)
・古代ドイツ法によれば、身分違いの結婚をした男爵はその身分を失い、その子供たちも「あしき手」(劣った家系)に従わねばならぬことになっていた。(p.97)
・われわれがある人を本当に知るには、その人が働いているとき、すなわち、男子ならばその職業で、女性ならば家事で働いているときが一番よい。また、男女ともその人柄が最もよくわかるのは、彼らが困難や心配事におちいっている場合であり、逆に最もその人がわかりにくいのは、社交場、特に温泉地や夏の避暑地などである。(p.97)
・ひとは老年になると、その生活の姿が、以前よりもはるかに明瞭にあらわれるのが普通である。まことの敬虔は、老年を訪れるさまざまの艱難を辛抱づよく忍ぶことに現われ、偽りの敬虔には、焦りとか、次第に形式だけになっていく信仰にあらわれる。(p.98)
・謙遜にすぎる人、とりわけ自嘲的な態度は、決して信頼すべきではない。(中略)本当に謙虚な人は、およそ自分については、善かれ悪かれあまり話したがらず、他人が自分に構ってくれることなど少しも望まない。(p.100)
・具わった器量は、人生の偉大な運命とか、辛い艱難とか、あるいは立派な公債、ことに誠実な非常にすぐれた天分ある友人とか、正しい結婚などによって、それを高めることができる。(p.102)
・常に変わらぬ第一の規則は、まるで考えの違った人たちとはなるべく深い関係に入らぬように努めることである。しかし第二の規則は、あらゆる人を、その人のうちに宿るさまざまの可能性に従って取り扱うことである。(p.103)
・われわれはわれわれの敵を個人的に知らなければならない。また、われわれの友とはあまり頻繁に会ってはならない。(p.103)
・ひとはそれぞれ自分の型を完成しなければならない。どこの国の人間か、まるでわからないような人は、不愉快な現象である。だから、国境近くの住民はいかがわしい性質を持っているのが多い。多くの国の言葉を話すことも、一般に、天才のしるしではなく、また優れた性格のしるしでもない。(p.113)
・顔の上半部に対して下半部がいちじるしく発達しているとか、みすぼらしい顎とか、表情のない眼とか、たえず落ち着かぬ、何か探すようなまなざしとか、あるいは婦人のあまり大声の話しぶりなどは、いい兆候ではない。婦人の無邪気な表情が、真似ようとしても決して真似られないのは、幸いなことだ。(p.114)
・婦人の性格は、一般に男子の場合よりも知れやすい。女性の場合、悪い女がよい女と間違えられるほど、長い間、人を瞞せるものではない。(p.139)
・現代の頽廃のおもな原因の一つは、主として女性の享楽欲や誤れる教育のために、教養ある多くの男性が結婚難におちいり、その結果まったく結婚しないか、あるいは適当な時期に結婚できないことである。(p.143)
・今日、男の方では普通、結婚に拠って自分の経済状態の改善を計ったり、もっと「教養」の低い階級では結婚によって無給の女奴隷を得ようとする。これに対して、女の両親は結婚によって娘を、たとえどんなみじめなものであっても、一種の生命保険に入れたつもりでおり、娘は娘で社会的出世に有頂天になって、結婚後のあわれな無権利状態のことは忘れている。(p.143)
・それだから女性は、自分よりもはっきり身分の低い男と結婚したり、全然教養のない家庭へ嫁いではならない。また道徳的に非難の余地を残すような男や、けちくさくて利己的な男、あるいは気立てのよくない男と結婚してはならない。また通例、別の地方の男や国籍の違った男とも結婚しない方がよい。これと反対に、まじめに向上しようとする男子にとっては、身分のある高尚な女性と結婚するのが、急速に前進するための最適の方法である。(pp.144-145)
・世には、一般に信じられ、見られるよりも、はるかに多くの不幸な結婚がある。そういう不幸な結婚生活の大部分は、まず第一に、そして主に、男に責任がある。ところが、多くの娘たちが、もしかしたら恐るべき奴隷状態になるかも知れない夫婦関係にさっさと入っていく呑気さには、まったくぞっとさせられるものがある。(p.145)
・結婚生活において静かな尊敬や友情を求め、かつ見出すのと、熱烈な愛情を求めるのと、そのいずれがよりよい結婚といえるかは、常に議論のつきないところであろう。われわれは、一般的な規則という意味では、前者に賛成する。しかし―後者を知らないものは、人生が何であるかを知らない人である。(p.145)
・多読ということは、実際今日では、一般的教養にぜひとも必要である。完全な教養をそなえた人になるには、本来次ぎのようなことが要求せられる。すなわち、比較的長い生涯を送った人であれば、その間に、真にすぐれた文学作品はのこらず自分で読んでおり、なおそのほか、人間の知識のあらゆる部門について少くともある程度の一般的な正しい概念を得ていて、「人間に関することで全然知らぬものはない」くらいになっていることである。(p.168)
・いったいに金銭問題で絶対に信頼できることや、金銭に対する正しい態度は、教養ある人の絶対に欠くことのできない資格である。金銭の浪費や、金銭に対するもったいぶった軽蔑は、常に無教養のしるしであり、また貧しい同胞に対する不正でもある。(p.171)
・教養を欠くことの十分な目じるしは、身分の低い人や貧しい人と交わる際の傲慢であるが、こうした態度は、えてして身分の上の者や金持に対する卑屈と結びついている。これは、無教養の境遇から出た成りあがり者の固有の特徴である。よく洗練された教養をもつ人は、つねに丁寧で親切であるにちがいない。交わる相手が自分の目下の者、自分に頼っている人、あるいは困窮者などであればあるほど、いよいよ親切・丁寧にするが、しかし、要求がましい者や上から見おろしたがる人を相手にする時は、礼を失しない程度で、粗略にとり扱うだろう。さらに、相手がただ金持だからというので尊敬するのは、前にも述べたように、自分の教養がまるで無いことを示す何よりの証拠である。(p.173)
・バカ丁寧なのは、普通、教育がないとか、素性が卑しいということの一つの証拠であって、何となくうさん臭い感じを与えるものだ。最もこころよい礼儀というのは、すべての人に対して自然な、落ち着いた愛想よさである。(p.174)
・教養というものは、まず第一に、その人自身の性格に適し、第二に、その人の生得の能力と職業にふさわしいものでなければならない。(p.176)
・教養ある男が不幸になるのは、たいてい、物質的関心のみ発達した無教養な婦人、もしくはそういうふうな家庭の出である婦人との悪い結婚が原因である。(p.176)
・決して財産に「心をかけ」てはならない。あるいは、財産を生活の最大事、努力の最大目標と考えたり、財産の多寡によって人間や身分を測ってはならない。(p.260)
・何代にもわたって利己主義でこり固まってきた家には天罰が下されるという予言は、まちがいなく当たる。また両親に冷酷だった者は、わが子の親不孝によってその仕返しをうけるし、反対に、両親に対して多くの愛情をささげた人には、一生特別の祝福が伴うという経験も間違いないところである。(p.289)
(抜粋終)
『幸福論 第三部』ヒルティ(著)草間平作・大和邦太郎(訳)岩波書店
・現在普通に見られる唯物主義には、実は誰もが飽きあきしているし、また、特に幸福を約束するとされる未来の無神論的社会主義も、結局ものを考える人々のうち、ごく少数がそれを信じているにすぎないからだ。実際このような社会主義が実現しても、現在の利己主義の社会制度よりも、せいぜい悪くないという程度であろう。最もうまくいっても、ただ外部の所有制度が変化するだけであろうが、そのことのみで幸福がもたらされるものではない。(p.81)
・まず、諸君が属している同じ国の人々のもとへ行くがよい。なぜなら、神は「秩序の神」であり、ひとが一つの国、一つの民族に属することは、神の秩序であって、その秩序を全く無視しようとする国際的なもの、人道主義的なもの、あるいは社会主義的なものは、あらゆる真の成功の唯一の源である神の祝福を受けることができないからである。(p.247)
・たとえば大家族がわずかな収入で生活し、また多くの貧しい寡婦たちがきまった収入さえなくて、しかも物乞いもせずに年々無事に暮しを立て、そのうえ子供たちをも立派に教育していること、これに反して、他の人たちは、多額の所得を持ちながらすこしも繁栄せず、むしろ全生涯をあくせくと働きとおして、しかも結局、心配と借金に囲まれて死んでゆき、子供たちにはあらゆる種類の争いと不満と不幸よりほかに何も残さないこと、こういう事実はまったく日常ざらに見受ける現象である。同様に、子供や孫たちの肉体と精神のすぐれた力が、両親や祖父母の道徳的に純潔な生活の賜物であり、反対に今日の神経質の大部分、さらに進んでは狂気や犯罪の素質にいたるまで、その真の原因がこの神の秩序の蔑視にあることは、少なくとも一般の医者や精神科医が十分知りつくしているところである。さらにまた、真に正直な人々は、信仰がなくても、めったに経済的におちぶれないことも、たしかに不断の経験である。(p.280)
・わたしは昔、若かった時から年老いた今日にいたるまで、正しい人(聖書の意味の)が落ちぶれ、その子供たちが物乞いをしなければならなかった事実を、一度も見たことがない、と。その反対に金持ちの子孫で、祝福を嗣がずにただ金だけを受けた場合には、たちまちのうちに没落したためしは、いやというほどわれわれみんなが体験してきている。(p.281)
・諺に「不義の宝は三代目に渡らぬ」と言ってあるが、これもしばしば驚くばかり確かに当る。神の祝福はなるほどとうてい説明しがたいものではあるが、それにもかかわらず、そのはたらきの点では極めて明白に認められるものであって、それは非常に困難な境遇や不幸な状況をもなお可能にするが、同時にそれを耐えられるものにもする。(p.281)
・祖先の生活や考え方のこのような悪い結果を負わされた人々が、助けも救いもなく、必ず滅びざるをえない、という考えは真実ではない。(p.282)
・同様に、現代のわれわれはフランス革命の思想をも放棄する。この思想は、国家はただ個人ばかりから成り、国家は単に個人を総括する機能を持つだけだという考え方であった。しかし人間の「自然的組織」はむしろ家族である。そればかりでなく、個人の生命はあまりにも短かすぎて、家族という形式なしには自分の人格を拡大することも、またすでに継承した素質を基にしてさらにそれを築き上げて、人間の使命であるところの完成へ到達することもできない。(p.317)
・それゆえ、結婚はどうでもいいことではなく、また純然たる契約上の問題でもない。この点で宗教改革ははなはだしい誤りを犯した。むしろ結婚は、眼に見える事物のなかでは最も神聖なものである。結婚が平均して(ただし配偶者双方からみて)どのような状態にあるかによって、その国情は大きく左右される。(p.317)
・各世代も、つねに上昇か下降かの線をたどるものである。幾つかの世代を経て、人間の完成がある程度の高さに達すると、その家系は子供のない者や愚かな個人のために滅びてしまう。(p.318)
・あるいは「古き人」が、なかでもジェスイット教団をあのような恐るべき自己欺瞞の器たらしめたような手段や方法を用いて、何らかの「まぼろし」を拵えあげる。というのは、この教団は、まことによく似た方法でうわべは全くそっくりのもの[最高の境地のまがいもの]に達することができ、この教団の人たちも自分が魂の真の平和に至る唯一の正しい真っ直ぐな道を歩いていると本気で信じ込んでいる者が少なくない様子である。それにまた実際、「自由な人間の自由な結社」と自称する、この噂さの高い教団の真相を、みずから所属せずして完全に理解しうる人は、おそらく多くないであろう。(p.338)
・人生の正常な経過は、すでに大昔の知恵が教えているように、二十年は若い勉強の時期、次ぎの二十年は人生の地歩を確立するための戦い、さらに次ぎの二十年は職業的活動と家族の育成の時代である。そのあとの時期は、生活が正しく行なわれる場合は、まったく別の、より高い人生観に属する時代であり、そしてこれが別の新しい存在への過渡期とならねばならない。そうでなければ、まちがいなく滅びに到る。(p.368)
(抜粋終)
『眠られぬ夜のために(第一部)』ヒルティ(著)草間平作・大和邦太郎(訳)岩波書店
・人生の途上でたびたび出会う最も不愉快なものの一つは、嫉妬である。これは、耐えしのぶよりほかはない。妬む人たちの心は、なかなかなだめられないからだ。しかし、われわれはたゆみない着実な活動によって、静かにこれに対抗することはできる。(p.150)
・人生の下のクラスにありながら、上のクラスに属することを欲してはならない。そうすると、元来下級でなすべきことを十分みたさないことになるからだ。(p.200)
・生れながらの素質の相違や、生れた家柄のよしあしの差異は、もし人間に自由意志というものが存在せず、したがってこの上もなくよい境遇からもエゴイストが生れ、泥沼のような世界からも気高い人間が出てくるということがなければ、たしかに人間の運命の不公平な配分を訴える一つの理由ともなるであろう。だが、そういうことは全く計算できないものであり、いずれにせよ変えがたいものではない。(p.241)
・ある人物から受ける第一印象こそ、最も正しく、つねに標準となるものである。落着きのない、冷酷な、あるいはずるい眼つき、神経質な、あるいはおずおずした手、肉感的な口、無性格な顎、一般に顔の上半分より下半分の方が勝っている顔、これらは隠しきれないものだ。(p.298)
・結婚は軽く見てよいことではなくて、本当は恐しい事柄である。それは、個人にとっても国民にとっても祝福の源にもなれば、または全く立ちあがれないほど重く彼らの上にいつまでものしかかるように見える呪いの源にもなる。(p.311)
・大学は学問の火がその時代時代の風向きに惑わされることなく常に静かに燃えつづけるカマドであって、この火は単に向上する青年ばかりでなく、すべての人の心を温め、かつ照すものでなければならない。単に科学や技術の職業上の知識ならば、他の所でも学ぶことができる。大学はその本来の存在意義に従い、実際に有益なはたらきをしなければならない。すなわち、学生たちに大学的な(広範な)教養をさずけ、時代の文化全体と精神的接触を得せしめることがその任務であるが、しかしこれは普通ありきたりの講義だけでは達成されない。彼はまた、学者の職は天職であると考えた。この天職を完うするには、清らかな良心から生ずる勇気が必要である。大きな勤勉と強い克己心とをもち、ストア主義的あるいは宗教的人生観に基いて、世俗的享楽と社交の生活からわが身を引き離すことのできるのが、学者の模範である。さらにまた学者たる者は、自分の専門のみに閉じこもって、他に対する感覚を失ってはならない。また俗念をいだき、自分の学問を装飾として誇ったり、またはただ派手な講義でもって自分の知識の不足をごまかそうとするようなことがあってはならない。そのような学者はみな青年にとって有害無益である。真の学者は必ず一代の師表でなければならない。(pp.379-380)
(抜粋終)
『眠られぬ夜のために(第二部)』ヒルティ(著)草間平作・大和邦太郎(訳)岩波書店
・そういう良い結婚のためには、相互のまことの愛情のほかに、ぜひとも次の二つの事が必要である。第一には、双方がひとしく純潔で結婚生活に入らねばならないこと。第二には、夫が家計の維持者で稼ぎ手でなければならないことである。ところが、他のことではいやにデリケートな名誉感をもっている身分の高い人たちが、それと反対のこと(妻の持参金による生活)に甘んじていたり、あるいはすすんでそれを求めさえすることは、現代の最も奇妙な矛盾の一つである。(p.24)
・現代の最悪の現象の一つは、すべての文明国において下層の階級の大衆がキリスト教から、またおよそ宗教的なものから全く離れ去り、ひたすら社会主義の未来国家に彼らの状況の改善を期待していることである。この点で彼らがやがて失望するであろうことは、彼らにとってもう一つの不幸である。(p.106)
・聖職者たちが普通の社会主義に心を寄せるのは、大きな誤りである。なぜなら、社会主義は徹頭徹尾無神論であり、従って祝福と繁栄を伴わないからである。ところがキリスト教は、外部からなにか添加しなくてもすでに十二分に社会的なものをふくんでいる。だから、あなたは「キリスト教的にして社会的」と自称するものや、あるいは一般にキリスト教と今日の社会主義との結合を目ざすものを、一切信じてはならない。(p.107)
・社会主義のもっとも厭うべき点、そのためだけでも私がこの主義に賛同しかねるのは、社会主義が嫉妬を人間の行動の主な発条にしており、また実践活動においてもそれを信奉者に教えこんでいることである。(p.141)
・あなたはどんなことがあっても、カトリックの近代主義者たちと密接な関係を結ばないがよい、その他の点では、あなたの教会内でのこのような論争に対して、どんな態度をとろうと構わないが。(p.151)
・特にコーランは、聖書にくらべてひどく見劣りのする、ほとんど乱雑とさえ見える書物である。それゆえ、聖書によってその精神を形成し、たえず育ててきた諸民族が、精神文化の面で最大の進歩をとげたことは、単に人間的に見ても、十分うなずけることである。しかしそれと教会の諸制度とを混同してはならない。教会の制度はかならずしも聖書の精神に合致するものではなく、また民族によって大へん違った発展を経験してきた。(p.152)
・学校教育のシステムは、いたずらに名誉心を刺激するもので、若い人たちを一つの誤った軌道にみちびき、人生においてひたすらこの道を踏みつづければ、最後に彼らは、かならず野心家で、完全なエゴイストになるにちがいない。(p.234)
(抜粋終)
「カール・ヒルティ」の引用を含む過去ブログは、以下のリストを参照のこと。
(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%D2%A5%EB%A5%C6%A5%A3)
・2016-03-21 『民間防衛』は精神心理から
・2016-03-02 憤懣遣る方無い
・2014-12-26 カール・ヒルティ『幸福論』
・2014-12-15 格差社会は当然の成り行き
・2012-11-09 過去を回顧し動向を注視する
・2012-04-08 ルーツ
・2011-05-24 とりとめもなく (その3)
・2011-05-23 とりとめもなく (その2)
・2010-02-09 カール・ヒルティのことばから
・2008-12-09 今年の降誕節は
・2008-12-04 よかったね...
・2008-08-27 順境と逆境との間で
・2008-06-18 まどろみの日々を...
・2008-03-19 何を求めてのキャリアなのか
・2008-03-18 組織や肩書ではなくその人自身を
・2008-02-26 キリスト教がマラヤに伝えたもの
・2007-12-21 最近買った本の小話
(以上)