ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

矢内原忠雄氏の土曜学校講義(2)

というわけで、マレーシア・シンガポール旅行前だというのに、昨年暮れ、あしながおじさまから大量に送られてきた蔵書の中から(参照:2008年12月24日付「ユーリの部屋」)、しばらく三谷隆正氏と矢内原忠雄氏の著作集に熱中してしまいました。
私見に過ぎませんがが、こういう本は、その筋の研究論文を本格的に書くのでない限りは、思い立った時に読める部分からどんどん連続して読む方が頭に入りやすいように思います。送られてきた当初、毎日30分ずつ日課に組み込んで読もうかと思ったのですが、思っただけで実行できず、棚に並べられたままでした。日課にすると形式的になってしまう恐れもあるので、変則的で気まぐれですが、用件が立て込んで緊張気味の時をねらって、集中して読んだ方が吸収できるかもしれません。
土曜学校講義』は、アウグスティヌスやミルトン以外に、ダンテに関する巻についても、「みすず書房月報」と講義中に挿入された個人的なエピソードや時流解釈のページを拾い読みしました。ここで、いったんお休みとします。
実は、植民政策と聖書解釈の関係が気になっていたので、『矢内原忠雄全集 第二十三巻』から部分的に読んでみましたが、氏の愛国主義的で堅実な自由思想の反面、当時の限界や制約などがよくわかり、勉強にはなりました。韓国の留学生なら、こういう文章を現在読んで、多かれ少なかれ批判したくもなるだろうなあ、と思いましたし、事実、そのような論文がインターネット上で出ているのを今見つけました。ただ、沖縄出身者や台湾の留学生は、矢内原氏の見解と実践について、果たしてどのように考えるのでしょうか。韓国は目立ちますが、どうも私の視野が狭いせいか、これまであまり読んだことも聞いたこともないようなので...。あれば是非、読んでみたいと思います。
植民地支配された側の批判的主張は心して聞くべきでありますが、同時に、その人が一体、どのような立場から何故そのような批判をしているのか、それにはどこまで客観性や妥当性が見いだされるのか、という全体からの背景も見落としてはならないでしょう。古代からの長い韓日・朝日関係史の中で、一体、あの矢内原氏の植民政策の知見とそれに対する韓国側からの批判的見解をどのように位置づけたらよいのか...。

ところで、矢内原氏の『土曜学校講義』(みすず書房)計十巻をざっと通して読むと、西洋文化の源泉と歴史に関して非常に該博かつ深い学識をお持ちであり、真理探究に関して、自宅に集まった若い学徒達と一緒になって真剣にテキストと格闘されていた様子がよくわかります。今時、こういう厳しい対面人格教育があるのかどうか...。時々は、体調もすぐれなかったそうですが、それでも極力休まずに、これが最後かもしれない、というぎりぎりのところで講義を続けられたということは、並大抵の話ではありません。また、講義の始まりと終わりには祈祷をささげ、出欠もきちんととり、感想文の提出を求めていただけではなく、韓半島/朝鮮半島出身の受講生にも温かく細やかな配慮を示していたことが、受講生の懐かしい思い出として月報にも綴られているのです。
そして、私の分野に関して目を引いたのは、ダンテの『神曲』の講義で、『神曲』に出てくる十字軍やイスラームムスリムについて、矢内原氏自身から一度も非難する言葉が見当たらないことです。むしろ、十字軍は失敗した、あれほど馬鹿な話はなかった、と断言される一方で、プラス面としてはイタリアの経済が交易によって潤ったことを挙げています。あえて触れないようにされていたのかどうかはわかりません。でも、当時のことですから、回教研究が右翼系によって盛んに行われていた時流を矢内原氏が知らなかったはずはないのに、明らかに文明思想面で対立する部分があっても、少なくとも『土曜学校講義』を瞥見の限りでは、一切、イスラームムスリムを悪く言うことはなかったのです。(その代わり、カトリックの神学大系批判やプロテスタント日本基督教団の悪口はところどころに出てきます。賀川豊彦氏をペラギウスに喩えて非難されたり...)
数年前、ご長男の故矢内原伊作氏の『矢内原忠雄みすず書房1998年)を大学図書館で読み、部分複写したことがあります。子が親について客観的に綴ることは大変な作業だと思いますが、未完に終わった仕事ではあっても、私にとっては興味深い読みものでした。三人のご子息のうちお二人は、いずれも大学関係者でいらっしゃいましたが、私が予想するのとは違って、父親の深い感化を受けながらも、必ずしもそれを単純継承あるいは踏襲発展させるのではなく、それぞれのお考えで道を切り開かれたようです。親を超えたかどうか、というよりは、影響を受けつつも別の道を歩んだ、と言った方がふさわしいかもしれません。時代のなせる業でもあり、個性のためでもあったことでしょう。
これは私の想像に過ぎませんが、内村鑑三氏や三谷隆正氏や矢内原忠雄氏のような偉大な基督教系学者兼教育者に関して、今となってはいささか古くなった著作集を読んで素直に感動し、良き時代として懐かしくうらやましく感じるのは、多分、時代の上でも経歴の上でも出身地の上でも、全く外部の人間だからではないかと思われます。内側の人々は、どうも内村門下の友人のきょうだいと結婚したり、先生にお世話されて聖書研究会のメンバー内で結婚したりしているようで、優秀な系統だけれども、狭いといえば狭いと言えます。そのこともあってかどうかはわかりませんが、ご子息やそのお孫さんなどの子孫は、それぞれの人生行路のようでもあります。
公的な面で考えるならば、これも時代の趨勢ということです。矢内原氏自身、次のように述懐されています。

繁養學部長として私の最も殘念に思ったことは、一般學生諸君との接觸の機會の少かったことである。」(矢内原忠雄駒場に別れる」(繁養學部報第八號、一九五二年一月)『大学について東京大學出版會 1952/1965年第3刷 p.177)

一高の生徒であった時、新渡戸稲造校長が、週一回の倫理講話や面会日を通して生徒と座談された経験から、自分もそのようにしたいと考えて実践してみましたが、「いずれもみな失敗であった」(同上 p.178)と書かれています。その理由としては、「時代が變っていたし、學生數が非常に多くなっていた」こと、「私が非常に多忙であったこと」を挙げ、「私自身の不紱」も添えられています。(同上 p.178)しかし同時に、土曜学校の精神はご健在で「學生の側における『消極性』もまた、反省されてよいのではあるまいか。」(同上 p.180)と問いかけられてもいます。

ここで申し添えたいのは、矢内原忠雄氏の理念と実践が、現代でも銘記され、推奨されていることです。

「(前略)東大教養学部の創立60周年を記念して同じキャンパスで開かれていた特別展『矢内原忠雄教養学部』だ。矢内原は、一般教養の重要性を唱えて教養学部の初代学部長となり、後に東大総長も務めた。先代の総長だった南原繁とともに、高校生によく講演していたという。(中略)若い心に火をともす。そのきっかけになる金曜講座のような試みが、もっともっと広がってほしい。」(2009年7月6日付朝日新聞夕刊論説委員室の辻篤子氏による「若い心に火をともす」から)

このような流れから、「土曜学校」の時代は、矢内原氏にとって、外的には厳しい痛苦と困窮の8年間であったとしても、その内実においては、非常に独創的で実り多き時期だったといえるのではないでしょうか。