ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シャガールと聖書 そして共感覚

今日から7月。2009年も半分過ぎてしまったというところです。

お正月の頃に立てていた目標が、達成できているのかどうかといえば、予想外に進んだ面もあれば、休息や自由な時間が欲しかった部分もあったりして、予定をきっかりこなしているわけではありません。
今から振り返れば、ミラン・クンデラを集中的に読んでいた頃が懐かしかったりもします。ああいう風に、自由に思うがままに、何かに取り組むということを、学校時代にはしたことがなかったんです。毎日、義務に追われていたというのか、何かにガチガチに縛られていたという感じで...。人から言われたことを実行しなければ、その人が不愉快になるという思い込みがあり、自分の人生を生きていなかったんでしょう。

今から思えば、本当に馬鹿げた時代を過ごしました。大きな損失でした。だから今、取り戻しをしようとしているのだろうと思います。我儘なようであっても、そうやって自分の世界を広げていかなければ、本当に狭い中で窒息してしまうというのか、無知なままで充足してしまうというのか。そういう人生は、つまらないと思います。

ちょっと言い訳めいてしまいましたが、自分が心から意義を感じたりおもしろいと思ってもいないことが、他の人にもおもしろく映るはずがないので、これでいいのだとも思っています。

それに、数年前から続いているある疾病のことですが、普段はあまり気にしないようにしていたものの、どうやらストレスや免疫力の低下とも関係があるのだそうです。もちろん、規則正しい生活が必須とはいえ、主人の進行性難病という状況から、それほど毎日安泰というわけでもないことは、以前からこのブログでも書いています。ならば、より一層、本当に人生にとって大事なことは何かを考えて、限られた制約の中でも、どうしたらより心地よく満足して過ごせるか、工夫することが必要なのだろうと思いました。業績一点張りの競争激化社会であったとしても、1000人が1000人、皆同じ方向を向いて走っているはずもなく、そこは落ち着いてよく考えなければならないだろうと思います。それこそ、長い目で見て、ということです。

さて、昨日の小さな発見。部屋にかかっていたカレンダーの説明書きに「シャガール聖書美術館」とあったんです。シャガールと言えば、幻想的な特徴のある絵が印象的でしたが、ユダヤ系であることを除けば、特に背景を知っていたわけでも興味があったわけでもありませんでした。
カレンダーの絵は、1961年に描かれた油絵の「楽園を追放されるアダムとエバ」です。創世記3章22節から24節をモチーフとしています。全体が緑色がかっていて、ケルビムときらめく剣の炎が中央左寄りに描かれ、夢のような情景です。
エルサレムで食事をしたレストランの建物内や東京での国際聖書フォーラムでも、現代画家が聖書物語を描いたものが飾ってありましたが、まさかシャガールもそうだったとは、昨日まで知りませんでした。ニースに聖書美術館があるのだそうです。行ってみたいなあ。(参考となるサイトの一例(http://www.museesdefrance.org/museum/special/backnumber/0710/special03.html))
というわけで、早速、本を一冊注文し、その他は図書館で予約することにしました。冒頭に書いたことと関連させるならば、何がきっかけで視野が広がるかわかりません。あてがいぶちではなく、時間はかかっても、何らかの刺激をきっかけに、自分にとって新しいものを吸収しようとする作業は、とても楽しいものです。特に、聖書を題材とした美術の可能性がほぼ行き詰まったとされる現代にあって、なお、シャガールのような人が聖書美術館まで建設していたとは驚きです。これを機に、何か新たな活路となればと思います。

それから、昨晩少し調べていたのが、共感覚という脳現象です。
庄司紗矢香さんが最近、個展を開き、音楽と並行共存する形で、もう一つの解釈表現として絵画の試みを披露されていました。彼女は、子どもの頃、何か言うと周りから変だと思われてつらかったとも、いずみホールのパンフレットに書いてありました(参照:2009年1月20日付「ユーリの部屋」)。音を聞くと色が浮かぶ、音楽を聴くと映像が思い浮かぶ、という経験と共に演奏活動をされているとのことで、6月28日のN響アワーで、西村朗氏も「それは本当ですか」とインタビューで確認されていました。紗矢香さんは「はい」と落ち着いてきっぱり返答されていましたが、それが色聴という共感覚だとわかれば、特に天才だの話題作りだのと、あえて持て囃したり貶めたりする必要もないわけです。もちろん、個展では、‘Synesthesia’という英語版のタイトルから、向こう(フランス)ではそのように理解されているのだとわかりましたが、どうも日本では、「天才ヴァイオリニスト」「すごい才能ですね」みたいな感じで持ち上げてしまうので、少し誤解されそうですよね。
共感覚のある人は創造性に恵まれているそうですが、それがそのまま世の中で通用するには運と環境も大事で、そうでなければ、なかなか理解されず、かえって日常生活では負荷がかかることもあるようです。
共感覚の音楽家といえば、メシアンエレーヌ・グリモーが有名ですが、確かに多彩で高度な能力の持ち主で、それだけにグリモーなどは、幼い頃、相当に苦労した経緯があるそうです。
こういうことも知った上で、演奏会を楽しむかどうか、また印象が変わってくるでしょうね。