ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

相互交流の境界線を設定すること

昨日は、ここ数日、夢中になって取りかかっている原稿に注を入れるために、埃をかぶった数年前の複写コピーを見ていました。私は立ち上がりが非常に重いのですが、いったん取りかかると我を忘れて何時間も集中する癖があるので、少しここで休憩をとって気分転換してみましょう。
数十年前の論文集は、なんだか懐かしいというのかノスタルジックな感じで、おもしろかったです。と同時に、この時期があったからこその現在があるわけで、その真剣かつ真摯なプロセス変遷の理解なしに、現状を表層だけ見て、キリスト教批判をしたり、ヨーロッパのイスラーム・コンプレックスと称するのは、いかにも失礼ではないかと改めて感じた次第です。もちろん、双方にどっちもこっちといった側面がないわけではありません。いずれにせよ、現在の問題点は、明らかに、非対称性の事象および相互に逆行する現象が発生していることです。マレーシアでも同様です。
では、キリスト教徒によるイスラーム理解は、最終的にどのような方向へ導かれるべきなのでしょうか。
William Montgomery Watt教授の『地中海世界イスラム:ヨーロッパとの出会い三木亘(訳)ちくま学芸文庫1984/2008年)("The Influence of Islam on Medieval Europe", Edinburgh University Press, 1972)(参照:2008年12月28日付「ユーリの部屋」)を読むと、ヨーロッパのイスラームに対する態度が、自己の劣勢と驚異および脅威といった心情からゆがめられた像であったことを立証しているという点で非常に勉強になり、また興味深いものです。しかし重要な点は、これはあくまで8世紀から15世紀にかけての話であり、現在とはまた状況が異なっていることです。そして、日本語版への序文の末尾で、ワット教授が述べているのは、「侵入してきた文化から多くを学びながら、しかもおのれの文化的独自性をうしなわないということは、あきらかに可能なことである」(p.008)ということです。これは何を意味するのでしょうか(注:William Montgomery Watt教授に関しては、2008年6月8日、6月11日から14日まで、6月16日、6月24日、6月27日、9月10日、12月28日付「ユーリの部屋」をご覧ください)。

物事は、できうる限り公平に見なければなりません。もちろん、完璧を求めるのは不可能ですし、例外もあります。そういう点で、私自身、大いに限界を感じる者ですが、一つ申し添えたいのは、このワット教授が、ムスリム・クリスチャン関係の中で、相手の立場になって物事を見る姿勢を大切にしたのと同時に、あくまで最期までキリスト教徒であり続けたということです。
(こういう話を公の場ですると、ムスリムないしはムスリム寄りの研究をしている私と同世代の人達の中には、「ひゃあ!」と声をあげる人がいるのですが、それはどうしてなのか、未だによくわかりません。よく聞く話として、本当にイスラームを理解すれば、その帰結として自然とムスリムになるはずなのに、ということらしいです。実際、イスラームを学んだ結果、キリスト教の複雑な教派神学や聖書学よりは、クルアーンの方がすっきりしていてわかりやすい上、生活の中で一つ一つを自分で判断するという努力をするよりは、すべて隅々まで法的に規定されているイスラームの方が負担が少なくて合っている、という理由からイスラーム改宗する事例もあります。)
現在でも、欧米の著名な大学のイスラーム学の学者の中には、いわゆる「よきキリスト教徒」である人々がいます。ムスリムとの関係修復を試み、イスラームを学ぶことで、より自身のキリスト教信仰に豊かな実りがもたらされるというのです。
確かに、私が京都で出会ったアメリカ人女性教授も、歴史学者でしたが、生育環境の中でユダヤ教徒との接触が多かったため、「では、キリスト教って何だろう?」と疑問に感じたのが教会史を専攻するきっかけだったとおっしゃっていました。その後、息子さんがユダヤ教徒の女性と結婚することになり、ユダヤ伝統に従えば、その子どもはユダヤ教徒として育つわけですから、現在では多宗教社会の実践を個人レベルでも行っているというお話をされました。
アメリカとヨーロッパとでは、事情が異なるので何とも言えませんが、アメリカの方がより現実的な印象を受けます。ハートフォード神学校でも、かつては全世界に派遣する宣教師を養成する訓練所として名高かったものの、世界宣教の支障や問題点が次々と明らかになると、真剣で苦しい神学的検討の末、対話路線へと徐々に変わっていったわけです。そして今もその路線でいるのですが、中には、対話会合に招待しても、かつてのハートフォードのあり方から、「隠された項目」があるのではないかと疑念を持ち、拒絶してくるムスリムもいるそうなのです。この深く根付いたステレオタイプは、それほど簡単に克服できるだろうとは思えません。
Jane Idleman Smith,"Muslims, Christians, and the Challengeof Interfaith Dialogue", Oxford University Press, 2007(参照:2008年10月25日・2009年4月18日付「ユーリの部屋」)には、ご自身の失敗談が率直に語られています(p.98)。ご自身が立ち上げられたクリスチャン・ムスリムユダヤ教徒の女性グループの話です。相互に交流を持って数年もたっていたので、象徴的な話ではなく、相互の宗教儀礼に参加し合ってはどうか、という話が持ち上がりました。ハヌカのランチョンやラマダン期のイフタールの夕食に参加した後、キリスト教儀式の番になったところ、どういうわけかご自身いわく、「愚かにも自分が所属する教会のイースター前の木曜日の礼拝と食事会」を選んでしまった、のだそうです。
4人のユダヤ教徒の女性と4人のムスリマが集ったのですが、誰もがしらけた雰囲気になっているのにすぐ気づき、大失敗したことがわかったものの、その場では取り返しがつかなかった、と。
ユダヤ教徒にとっては、イエスの死に関する説明が無礼だと感じられますし、ムスリマにとっては、クルアーンで十字架上のイエスの死が否定されているので、せっかくの相互理解を求めての交流がおじゃんになってしまったわけです。この関係修復には、随分長い時間がかかったようです。

(正直に書かれている点、非常に好感を持ちましたが、少しびっくりしました。いくらなんでも...。それほど、アメリカではキリスト教の文化伝統が自然に根付いていて、気がつかなかったのでしょうね。でも考えてみれば、キリスト教カトリックの断食以外、ユダヤ教イスラームの教義や信仰実践と抵触しない儀式があるのでしょうか?クリスマスはポピュラーですが、それでもやはり...)
この苦い経験から、異なる信仰間対話においてのルールの一つは、境界線を設定し、あえて境界線を踏み越えないように、衝突する可能性を排除しておくことだそうです。
日本でなら、いえ、私ならば、最初から知識としては異なるものに開かれた態度でありたくとも、実地の交流の上では、やはり一定の距離を置くだろうと思います。何かが起こってからでは遅いからです。それに、相互理解を高々と名乗っておきながらこんな基本的な点で「失敗」しているようなら、最初から関わらない方が無難だという態度にもなってしまうでしょう。

そういう点で、マレーシアで繰り返し起こっている、イスラームと非イスラーム、あるいはムスリムと非ムスリムの混在と分離状態という現象は、理解できなくもありません。個人レベルではうまくやっていると主張したいこともよくわかりますが、それは当事者の意識の持ち方如何または利害関係にもよるのであって、社会全体あるいは共同体のあり方としての立証は、描写は可能であっても、恐らくは困難ではないかと思われます。

(追記)アメリカで、原理主義的あるいは福音派キリスト教が政治と密着していたために非難されていたのは、ブッシュ政権時代に極めて顕著でした。しかし今はオバマ政権になったことですし、変化に対してできうる限りオープンでありたいと思います。問題なのは、個人の信条ないしは信念が政治や世界情勢と結びつくことであって、原理主義はともかくとして、福音派にも仔細に眺めればかなり幅があることは事実です。それを、自分とは異なる立場だからと非難一辺倒でいられるかどうか、これはよく考えなければならないことだろうと思います。
アメリカのイスラームについて一言申し添えたいことは、アメリカのムスリムには大きく分けて二つの種類があることです。一つは、アフロ・アメリカンのムスリム集団で、元クリスチャンであったものの、いわゆるキリスト教会における人種差別主義に抵抗する形で、新たな自己アイデンティティとしてイスラームを選択したアメリカ土着の人々のグループです。もう一つは、移民系ムスリムの集団で、これは選抜を経て入国し、アメリカ国籍を取得するのですから、出身国の水準でいけば、専門職のいわばエリートに相当します。この二種類は、同じイスラーム集団とはいえ、教育歴も社会階層も使用言語もライフスタイルも、大きく異なるだろうことは容易に想像されます。
ハートフォード神学校で実践されている異なる信仰間の対話は、努力の跡は見られるものの、概して、後者を対話の対象としているように思われます。つまり、法的にも実力の上でも「選抜されたエリート」なので、クルアーン解釈も高度に洗練されていますし、自分達の宗教実践の空間が法的に保証されている限りにおいて、アメリカで反旗をひるがえすことは、大凡考えにくいことです。従って、対話が平和裡に存在しうるのでしょう。
私が問題としたいのは、アメリカではそうであったとしても、各ムスリム地域の現状、しかも草の根レベルで何が起こっているかを無視しがちな傾向がないかということです。所詮、エリート同士対話であるならば、傾聴すべき点は多くとも、問題解決の上で果たしてどこまで有効なのかが不透明なことです。Jane Idleman Smith教授の言述を拝見していても、己を「中上層」と位置づけ、ハーバード出身者であることを誇りとするなら、どうして遙かに貧しく素朴に暮らしている人々の問題に深く共感することが可能なのか、と思うのです。
長年、私が抱いてきたフラストレーションは、ここにあります。また、自分の位置づけが非常に難しいのも、ここにあります。