ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教側はどうあるべきか

さすがに、サミール司祭の論説文を訳すのには、いささか疲れました。訳語の間違いも多々ありましたので、ご興味のある方は、ご面倒ですがもう一度見直していただければ幸いです。
こちらがナイーブにも疲れた理由としては、この司祭が、混乱の続くエジプトやレバノンでの現実経験に基づき、またヴァチカン関係者やムスリム世界の代表者とも長年、研究会や会合を持ちつつ、しかしご自身のカトリック司祭としての立ち位置はぶれることなく、勇気ある発言として率直に感じるままを書かれているからだろうと思われます。こういう姿勢は、非常に貴重なものとして、また、大きな励ましとして受け止めました。このような世界情勢の中に我々は生きているのだ、ということです。
訳しながら思い出していたのが、池内恵イスラーム世界の論じ方中央公論新社2008年11月)です(参照:2009年1月12日・2月13日付「ユーリの部屋」)。

当事者でないということは、無責任に何を語ってもいいということにつながってしまいやすい。現地の現実はどうでもよくて、日本で大向こう受けすることを言えばいいということになってしまう。(p.11)
キリスト教の観点(それもリベラル派による解釈)を絶対視することによる誤解
キリスト教のリベラル派の宗教認識を、イスラーム教徒もまた当然受け入れるはずだという前提に基づき、イスラーム教徒の側の主張に耳を傾けずに一方的に「擁護」や「共感」を示してしまっているところに、現在の「文明間対話」論を不毛にする原因がある
。(p.232)
イスラーム教の論理構成の特色として理解しておくべきなのは、ジハードの目的は「改宗させる」ことにはなく、「宣教を可能にするために必要な条件としての政治的・軍事的な支配権を確保する」こととして捉えている点である。改宗はあくまでも「結果として」もたらされるものとしてイスラーム教徒の観点からは認識される。異教の支配者による統治から解放され、自由な判断の機会が与えられれば、まともな選択能力を持つ者であれば当然イスラーム教を選ぶはずである、というのが大前提になっている。それでも改宗しない者がいれば、それは不信仰者として死ぬことをみずから選択し、死後の復活と裁判を経て地獄の業火で焼かれる罰を受けるのであるから、無理に改宗させる必要などない、ということになる。(p.233)
・ところが日本では、「イスラーム世界と対話」するという話になると、イスラーム思想史の中では周辺的な領域に存在する神秘主義や中世哲学の側面に注目し、東洋思想との類似性や影響関係を見つけ、そこに「対話」が成立したかのように論じて自足してしまう。実際に対立の要因となる部分からは目を逸らしてしまうのである。(p.244)
イスラーム法上、キリスト教徒支配領域とイスラーム教徒の領域の間の平和的関係には、キリスト教徒の側がイスラーム教に敵対しないという条件が必要とされる。ここで何をもって「敵対」と見なすかの判断権は一義的にイスラーム教徒の側にある。(p.251)
イスラーム教徒移民による時に社会の基本原則に抵触する要求やイスラーム諸国との困難な関係に取り組まざるを得ない西欧諸国の苦悩の深さを読み誤る。(p.254)
「文明の対立にしてはならない」という論理の持ち出し
←政治スローガンとしてはまったくまっとうである。しかし事実は事実として認識しておかなければ、どこから問題が生じてくるのか、いかにして摩擦を回避していくのか、見通しが立たない
。(p.255)
イスラーム教はあらゆる他の宗教の過ちを正した普遍的真理。この自由を実現するために、イスラーム諸国の政府は政策を実施する義務があり、イスラーム教徒の社会は相互に逸脱を阻止し、異教徒の不遜な行動を懲戒する義務がある
イスラーム教徒の大多数が規範と良識の礎として守ってきたもの
(p.256)
「真のイスラーム
←教育程度が高まり、経済発展がなされれば、自由主義を否定する「遅れた」宗教解釈は退いていく、という希望的観測に依拠
←「イスラームは一枚岩ではない」「イスラームの多様性」
←中核的な信条や支配的解釈の均質性や宗教をめぐって「異教徒」世界と対峙するときの結束力→目を逸らす
←あえて指摘した者には「偏見」「イスラーム教への敵対」といった本末転倒の非難を行い、圧殺していく傾向さえあった。これはある意味で、極端な西洋中心主義である。
(p.257)
・単純に「異なる価値観を尊重しよう」「他者に寛容であれ」と説くだけでは解決しない困難な話題が現実に存在するという認識。残念ながら、根を同じくする摩擦と対立が今後も間歇的に生じてくることが予想される。(p.258)
批判が許される欧米やキリスト教に対しては厳しい一方で、批判が許されないか、強圧的な抗議によって封殺される危険の予想される対象には極端に及び腰の傾向(p.?)
ベネディクト16世レーゲンスブルク大学での発言
←何ら対話が成立せず、集団の威圧によって法王が屈服させられるのを見た西欧諸国の市民の失望の深さにも、一言でも言及することはできなかったのだろうか。「イスラーム教徒は不確かな情報で煽動され、一方的に宗教規範を押しつけてくる」という失望は、西欧諸国で進む移民規制の強化の流れを底辺で支える静かな決意とつながっている
。(p.262)
・「文明間の衝突を避ける」というお題目なら誰にでも言える。問題は「誰がどのようにすれば衝突を避けられるのか」である。欧米側が譲ればいい、という議論は安易になされるが、それによって人権や自由といった価値を放棄することになっては元も子もない。(p.366)
イスラーム教は平和の宗教だ」という反論
←しかし現実に数多くの事件がイスラーム教の規範理念で正当化され、それが信者の一定数に対してかなりの説得力を持ち、多数のイスラーム教徒もその意味を容易に理解している点が重要である。(p.411)
・テロと宗教をめぐる「対話」の試みは、世界のイスラーム教徒の圧倒的な数の力を結集力やオイル・マネーの力を背景に、もっぱら欧米や日本などの「誤解」を批判し、イスラーム教の側の「寛容さ」「先進性」「優越性」を褒めたたえて終わる
。(p.412)

(引用終)

以上は、読書メモからの部分引用ですので、細かな表記などは原文通りでない箇所もあるかもしれませんが、大意において間違いはないだろうと思います。
ところで、本日、故W.Montgomery Watt先生の“A Christian Faith for Today”, Routledge, 2002アメリカから届きました。スコットランド監督教会の司祭として長年イスラーム研究をされてきたワット先生晩年の総決算とも言うべきご著書です。上記の池内恵氏も、イスラーム学について「センス/筋がいい」と評価されていたワット先生です。私がずっと気になっていたのは、では、先生ご自身はキリスト教信仰をどのようにとらえていらしたのか、という点でした。そのために、この本は、意外と小さいながらも、含蓄に富んだものであろうと楽しみにしています。(ワット先生については、2008年6月8日・6月11日-14日・2008年12月28日・2009年4月23日付「ユーリの部屋」を参照)