ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ヨーロッパのムスリムについて

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緊急報告シリーズ  Special Dispatch Series No 2309 Apr/19/2009
ヨーロッパ人の開放性に付け入るムスリム・グループ
最近、湾岸の新聞の2つの記事が、欧州ムスリムの西側に対する態度を取り上げた。2008年12月2日、クウェートリベラルな日刊紙アワン(Awan)に、バーレーンリベラルシーア派宗教者ディヤ・ムサウィ(Dhiya Al-Musawi)が(インド)ムンバイのテロ攻撃に関する記事を発表した。(同テロの)実行犯の一部は英国に帰化したムスリムだった。2つ目の記事は、2008年10月5日、アラブ首長国連邦UAE)の日刊紙イッティハード(Al-‘Ittihard)に発表された。筆者はリベラルクウェートのコラムニスト、カリル・アリー・ハイダル(Khalil ‘Ali Haidar)だった。両人は、欧州のムスリム・グループが西側のさまざまな自由やサービスを享受する一方、西側を害していると批判した。うち、この問題を広範囲に扱ったのはハイダルで、批判の理由をこう述べた。欧州の全てのイスラム運動と党派は(欧州ムスリムの)イスラム過激主義を推進した。欧州ムスリムの生活を管理した。そして、東側と西側のギャップを埋めようとせず(欧州ムスリムの)孤立、疎外、さらにジハード(思想)に動機付けられた反西側テロを意図的に引き起こした、と。
以下は、ムサウィとハイダルの記事の抜粋である。
・欧州のムスリムは、自分たちが水を飲む井戸につばを吐いている
ムサウィは「テロリストが生まれながらの英国人だった場合」とのタイトルで、こう書いた。「・・・数千人のムスリムが故郷から追放された後、西側諸国で自分と家族のために市民権を得る。(西側は)彼らの亡命を認め、仕事、住まい、健康保険を与える。(しかし)この2番目の故郷に最初に背を向けるのも彼らだ。一層悪いのは、自分と家族に保護を与える、まさにこれらの国々の広場で自殺する者たちがいることだ・・・奇妙なことに(イスラム教の)長老の中には、これらの西側の国々の(モスク)の説教壇から西側を呪い、罵倒し、(西側)諸国の破壊を願う者たちがいる。しかも、彼らを警護しているのは、これら西側諸国の警察なのだ・・・」※1
イスラム主義者は西側のムスリムの生活を管理した
ハイダルはムサウィの記事に類似した調子で、こう書く。「欧州と米国の難問は、アラブ人でもムスリムでもない。イスラムアラブ諸国の内外で(ムスリムの)政治的、宗教的、社会的、文化的生活を管理するイスラム主義者であり、その党派とグループの双方である。(これらイスラム主義の党派とグループは)西側諸国のムスリム・マイノリティー(少数派であるムスリム社会)にも影響力を持つ。彼らがここで集中したのは(ムスリム移住者の)第一世代に制限を加えること、第二世代に対する洗脳、そして組合、組織、モスクの破門だった。西側諸国は長年にわたり━実際、第二次世界大戦終結以来━アラブとムスリムを歓迎してきた。そして、説教と(他の)活動に関し広範な機会を与えた。西側諸国はムスリムに対して驚くほど親切だったムスリムは時間の経過と共に力を増し、(イスラム主義の党派とグループは)これら(ムスリム)社会のまさに心臓部をしっかり監督した。
「(欧州諸国における)イスラム主義の全ての党派、グループ、思想学派を含めた同主義者の存在は、(様々な)党派の教化を受けてきたムスリム・マイノリティーと、これら(西側諸国)の民主的社会との関係の試験場だった。イスラム主義者、とりわけムスリム同胞団は長年、アラブ諸政権の抑圧(政策)、自由の凍結、監視等々について不満の声を上げてきた。(アブーアラー)マウドゥディー(Abu A’la Al-Mawdoudi)※2の著作(原本はウルドゥ語で書かれた)は、アラブ世界で人気を博し、若者を堕落させ、その外観を歪めた。(マウドゥディー)は全世界、とりわけ欧州のリベラルな反対者に対し新たな社会秩序━西側文明とその物質主義(的価値)という汚物による汚染を免れたムスリム青年の指導の下で将来導入される新たな社会秩序、また、自由、柔軟性、宗教的寛容等々、あらゆる点で西側文明に優る新たな社会秩序━の到来を宣言した」
イスラム主義者が疎外とテロを作り出した
ムスリム同胞団、タフリール(解放)党、※3 及びエジプト、パキスタン、その他のイスラム・グループのイデオロギーは、欧州におけるアラブ人とムスリムを暗黒と混乱の中に投げ込んだ。これらグループは著作、フィルム、過激な分離主義の考えで、様々な形態の過激主義の拡散に道を開き、公然たるテロに道を開いた。
「西側文明、人間が作った法律、オリエンタル学、文化侵略と西側の陰謀(と彼らが見なすもの)に対するやむことの無い攻撃。これによって(ムスリムが)移住先の新たな環境に、それを憎みながらも溶け込むということは困難になった。(しかし、ムスリム移住者の)物質的利益や彼の党派の目的に関する限り(ムスリム移住者が新たな環境に溶け込むことが妨げられることはなかった)・・・」
・復興や革新という文化の欠如
イスラムの党派運動にはリバイバル(復興)とイノベーション(革新)の考えがない。したがって、イスラムの党派運動は、西側社会のポジティブな面を見て取ることや、西側の文学、美術、文化を学ばなかった。その結果、西側とイスラム(の諸要素)を結びつける現代文化、文学、美術のモデルを作り上げることはなかった。(穏健とされる)ムスリム同胞団の指導者たちですら、パリやロンドンやドイツで半世紀に及ぶ(滞在の)間に、注目に値する美術や文化は(もちろん)新たな考えも全く生み出さなかった。これは、イスラム文明を誇りとし、バグダッドとアンダルシア文明の継承者であることを明言する人々も同じだ・・・」
イスラム主義の党派とグループは自らの党派の、書籍や刊行物を配布する発行所を開設したことは事実だ。また、新聞、テレビ、他の(メディア・アウトレット)といったメディア兵器の改善に力を抜くことは決してなかった。また自らの金融機関や銀行を発展させ(それらを)『イスラム的な、利子なし』銀行と呼んだ。私立学校も設立した。(しかし)これは、ムスリムの少年と少女を欧州の環境からさらに隔離し、イスラム諸党派による、ムスリム青少年の(生活の)管理を強める結果となった。これは部分的リストに過ぎない。だが、イスラム主義の党派とグループは、東側と西側のブリッジとして活動すること、例えば(ムスリムディアスポラ(離散)の詩人を持つことはなかった。また、イスラム世界における近代化と民主主義と創造性━文化的、美術的、文学上の創造性━の種を蒔くことを助けなかった。
「(イスラム主義の)メディアが強い熱意を持って製作したレポートの大半は(宗派の異なる)モスク間の闘い、家族の名誉殺人、過激派の宗教的ディスコースに関するものだった。(イスラム主義の党派とグループで)有用な文化プログラムのスポンサーになった団体はひとつもない。百科全書を翻訳した党派はないし、文化、教育あるいは東側と西側間の絆の側面を探るスタディー・グループを組織した党派もない。また、これらサークルの中で(ひとつのプロジェクト)━例えば、イスラム諸党派の著作を再検討し、あるいは過激主義思想と異端非難のイデオロギーを取り除くことによってイスラム諸党派を近代化させるというプロジェクト━に努力を注いだところはひとつもない」
・寛容に付け入る
「いかなるイスラム党派も、欧米に住むムスリムに対する西側の寛容━一般的に宗教の自由、とりわけキリス教徒とユダヤ人のイスラム改宗者に対する敬意━をモデルとはしなかった。宗教上の寛容を教わることもなかった。宗教の選択は個人の問題であると認めることもなかった。アラブとムスリム世界におけるムスリム保護の考えを受け入れることもなかった。逆にイスラム党派は、西側が彼らの要求に譲歩し、彼らを寛容に扱っていると気付くや、次第に攻撃的になった。こうして、彼らは広く受け入れられ、人気を得るや、彼らの傲慢さは際限がなくなった・・・
イスラム主義の文学、刊行物、説教は欧州の心臓部においてさえ(ムスリムの)古びた著作の認識構造を本質的に留めている。この認識構造の中で、文明から入力されるものをくずと扱い、驚くべき技術のイノベーションの全てを単なる物質的発展と扱い、西側の生活と価値を退廃と堕落と扱い続ける
・暴力とテロとの繋がり
「穏健なイスラム・グループはしばしば、暴力とテロに関係がないと言われてきた。しかし、これは幻想である。テロ・グループの考えの全ては(穏健なグループとされる)ムスリム同胞団、タフリール(党)、パキスタンのジャマーア・イスラミヤ、その他の(グループの)イデオロギーにフィットしている。偶像崇拝、神の支配、シャリーアイスラム法)の施行といった考え━新たな支配党派と結びついて新たな原理主義的意味を持つに至った考え━はアルカーイダやファタハイスラムが発明したものではない。――認識の孤立、人間が作った法律の無効、神への奉仕と言う観念。政治的現実主義の全ての様相と同様、ホームランドとその国民であるという価値観の切り崩し。ムスリム同胞団のモットー『アッラーのための死は、われわれの最も高い願望である』といった宣言。及び、数多くの別な(スローガン)――。これらは全て(イラク・アルカーイダの初代指導者)ザルカウィ(Al-Zarqawi)、ビンラーディン(Bin Laden)、や(ヨルダンの過激派イスラム法学者ムハンマド・マクディシ師(Sheikh Abu Muhammad Maqdisi)が発明したものだ・・・
ムスリム同胞団がしばしば論議する本(に出てくる、以下の)考えに出会った若者に、われわれは何を期待できようか。『今日、われわれは(ムハンマドの)時代における偶像崇拝に類似した、またそれよりも悪質なジャーヒリーヤイスラム以前の偶像崇拝の時代)に生きている。われわれは偶像崇拝に取り囲まれている。人間の達成と信念、人々の伝承と慣習、伝統的資源、美術、文学、法律、規制、さらには、われわれがイスラムの文化、権威、思想・哲学の諸様相と見なすもののほとんど━これらはすべて偶像崇拝の産物である』
「これはサイイド・クトゥブ(Sayyed Qutb)の著書『道標』の文章である。この本は他のムスリム同胞団の数百冊の本と同様、イスラム諸国の全ての言葉、トルコ語ペルシャ語ウルドゥ語マレーシア語、インドネシア語などに翻訳された。これらの本はムスリム世界において、数千人の若者たちを洗脳し、(その多くを)過激派のテロ組織に引き込んだ。
「この文章は、イスラム主義者が過去40年間読み(再読してきた)。この文章こそ、ムスリムの深い疎外感━自分の社会と、移住先の欧州や米国やオーストラリアの社会、その双方から自分が疎外されているという深い感覚━の主たる理由ではないか・・・
「疑いもなく、世界中、男であれ女であれ、多くのムスリムの見解を形作り、ジハード主義のテロリストの世代を生み出したものこそ、こうした考え、聖書の聖句、教義である。これらの中には、われわれの魂を毒した(後、われわれにとって)無害なほど『穏健』に見えるものもある。
「欧米におけるイスラム主義社会と西側社会間の衝突を引き起こしたものこそ、この(現象)だ」※4
注:
(1)Awan(Kuwait), December 2, 2008.
(2)サイイド・アブール・アラー・マウドゥディー(Sayyid Abul A’la Mawdoudi)(1903−1979)(1903−09−25)、マウラナ(Mawlana, Maulana)やシェイク・サイイド・アブール・アラー・マウドゥディー(Sheikh Sayyid Abul A’la Mawdoudi)とも呼ばれる。スンニー派パキスタン人のジャーナリスト、神学者、政治哲学者。イスラム主義の大思想家でもある。また、故国パキスタンで政治活動を行い、ジャマアテ・イスラミ(Jamaat-e-Islami)(イスラム復興党)を創設した。
(3)ヒズブ・タフリール(Hizb Al-Tahrir)(解放党)は急進的なイスラム・グループであり、その基本方針は、新たなカリフ制の呼びかけによってムスリムを糾合することである
(4)Al-Ittihad(UAE), October 5, 2008.

(引用終)