ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

それでもいろいろある

というわけで、昨日はいささか憂鬱でもありましたが、人生、悪いことばかりじゃありません。以前、キリスト教史学会で、ずいぶん多くの重厚な業績をお持ちのご年配の先生が、上がり下りの階段の多い複雑な構造の会場を例えて、「研究も同じですね。山有り谷有り。上がったかと思うと下がったり。人生もですね」とにこやかにおっしゃり、ほっとした気分になったことを覚えています。
誰しも同じような経験を恐らくはお持ちなのでしょうが、問題はその表現の方法、あるいは、他者に伝える時の指摘の仕方なのでしょう。自分だけ偉そうに振る舞うとか、人を高飛車に見下すような態度は、若い頃なら学習過程として許されるとしても、歳をとればとるほど、その人自身に深刻なものがありそうです。普通は、年齢を重ねるほど、世の中のさまざまな側面が見えてくるので、一つの価値観だけで裁断できないことを習得するものです。だから、人への対応も円満に広がっていくのが健全なあり方だと聞いたことがあります。頑固に狭くなるのは、どこかが間違っているのだ、と。

主人も、病気になる前は、大学を首席で卒業し、同期の中でもトップ昇進だったため、私と出会った頃は、地味でおとなしいながらも、内なる強い自信を秘めていたところがあります。ところが、不摂生もしていないのに、原因不明の病気しかも進行性難病に見舞われて以来、世の中や人の見方が大きく変わったと言っていました。職位職階を越えたところで、誰が困った時に本当に手を差し伸べてくれるのかなどが、よく見えてくるのだそうです。

ものは考えようで、私など今は、専門の勉強と実益を兼ねての趣味(音楽・語学・散歩)と家事以外にはできないのだから、思い切ってそれに打ち込めるわけです。お金も体力も自由になる時ほど、人間、余計なことをあれこれしてしまうので。狭くなったといえば狭い。でも、行動範囲が狭くなった分、想像力を広げて読書によって疑似体験を増やしていけると考えましょう。

昨日の午後は、民博図書室へ2週間ぶりに行ってきました。刊行された博士論文二本の返却日だったからなのですが、読み切れなかったため継続手続きをしました。関連文献も何冊かチェックして、あるものは部分コピー、のこり3冊は借りることにしました。マイクロフィッシュもあと3シート済ませれば完了予定で、複写する箇所はメモにとってありましたが、結局は、後日に回すことにしました。時間ぎりぎりになると、司書の方達にもご迷惑がかかりますし、自分でも、焦って詰め込むと疲れがたまり、あまりよくないので。昨日は、珍しく30分前には外に出ました。おかげさまで、買い物もして、家に帰ってからが随分楽でした。
昨日借りてきた別の博士論文二本ですが、特に、ドイツ人のものが抜群に秀逸です。マレーシアのある古い共同体に住み込んでの調査だったのですが、遠い国から来た「よそ者外人」とのことで、当初は、共同体の長老もその能力に不信感を持っていたものの、交流を深めるにつれ、そのドイツ人調査者の物のわかりの素早さと深さに感銘を受けたようです。序文の前にそのようなお褒めの言葉が数ページにわたって書かれていました。
また、昨日の文献調べでわかったことは、直接存じ上げる日本人の教授陣3名のお名前も、国際的な英語文献の共同執筆者に含まれていたり、謝辞に載っていたりしたことです。改めて感銘と励ましを受けました。
民博への行き帰りには、あしながおじさまから譲っていただいた『矢内原忠雄著作集 第16巻』から(参照:2008年12月24日「ユーリの部屋」)、「マルクス主義キリスト教」に関する論考を読んでいました。大凡、以前に何かで読んだり聞いたりしていた主張と同じで、恐らくは、その方が矢内原氏の文章からヒントを得て、自分の言葉に書き換えて伝えたのではないかとさえ思いました。