ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

よい言葉かけとよい心がけを

昨日は、町の夏祭り。ゆかた姿の子ども達と大人で賑わっていました。
...と、ゆかたにまつわるある過去の経験が蘇ってきて、過去が現在をつくるとはこういうことなんだ、と思わされたんです。その経験とは、決して愉快な楽しいものではなく、私にとっては、むしろ非常に苦痛だったのですが、あれ以来、ゆかた姿の人を見る度に、潜在意識の中で、ゆかたそのものを自分から遠ざけたい気分になっていたことに気づきました。
主人と週末におしゃべりしていると、そんな一見つまらないささいな過去の出来事が、大きく自分の判断や行動を左右しているのだと再認識させられます。そこで、唯一、現在とこれからの自分にできること、しなければならないことは、批判精神は重要だけれども、自分にも周囲の人にも、できる限りよい言葉かけとよい心がけに努めることだということです。そして、無理に嫌な人達と付き合おうとはしないで、その分、有益な本を読み、よい音楽を聴き、いい展覧会へ行き、自然に触れ、できるだけ自分にとって心地よい時間を過ごすよう心掛けることだと思ったんです。(決して引きこもりとか孤立という意味ではありません。くれぐれも誤解なきよう...)

一方で、(いい人なのにどうして早世したのか、事故に遭ったのか、病気になったのか、不運なのか)などという嘆きはよく聞かれます。世の中は所詮、自然淘汰であって、生存競争なのだと割り切る思考は珍しくもありません。ですが、結局のところ大事なのは、その人自身の真の安心立命というのか、安寧の境地というものではないでしょうか。何がともあれ、その人の言動がその人自身に戻ってくるのが人の世の常なのだからです。また、言霊思想といわれるように、確かに、発した言葉がそのまま実現してしまうこともよくあります。特に、妬みや嫉妬や憎しみなど悪意ある言葉が、それに該当します。昨日私は、その妥当性を具体的に知って、改めてびっくりしました。いえ、私が発したのではなく、実は発せられた方なのですが。

19世紀のイギリスにジョージ・ミュラーという人がいました。この人は、若い頃は不道徳な生活を送っていたそうですが、ある時回心し、ブリストルに孤児院を建設して、93歳で亡くなるまでに1万人ほどの孤児を養い、教育を受けさせるという偉業を成し遂げました。実際には定かではないのですが、その事業のために、一切の資金を祈りだけで支えたのだそうです。というと、いささか狂信的に思われるかもしれませんが、当時のキリスト教信仰復興の流れという文脈の中で理解すべきでしょう。実は、ウィリアム・シェラベア博士自身も、このジョージ・ミュラーの説教に感銘を受け、マラヤでの伝道活動に加わる決心をした経緯があります(Robert Hunt "William Shellabear: A BiographyUniversity of Malaya Press,1996, p.44)。
シェラベアの宣教師としての仕事自体は、戦前戦時中の日本でもマライ語専攻者の間で広く知られていた節がありますが、現在では、キリスト教神学のアプローチ変化に伴い、マレー文学研究の資料として以外は、ほとんど顧みられることがありません。しかし、民博図書室でマイクロフィルムと格闘しながら、数々の議事録や“The Malaysia Message”という定期刊行物を丹念に読んでいくと、もちろんアメリカや英国などのキリスト教組織のバックアップがあっての事業でしたが、あの熱帯地でよくあそこまで活動しえたものだ、と感嘆させられます。ただ、残念なことに、シンガポールを除けば、シェラベアの祈りによる活動の実は、現在、価値観の逆転によって地に落ちてしまったようです。しかし、あの当時のことを詳細に批判的に検討する作業は、やはり意味があると思っています。それと同時に、この宣教師達は、数々の失敗や困難を自己分析しながらも、自分の人生として充実感を覚えていたのかどうか、ということも考えています。現在では否定されがちなキリスト教宣教活動も、当時の価値観では「神への奉仕である」と肯定的に受け留められ、自らの業ではなく、聖霊の働きによってのみ実現すると考えていました。僅少とはいえ、少しでも地元民からキリスト教への関心が芽生えると、大変喜んでいた節がうかがえます。
あの土地に立って、宣教師達がその場所でささげたであろう祈りを想像してみたことがあります。いかなる時でも希望を持って祈る、神の御心だけが実現する、土地の人々の向上のために自らの人生を捧げる、という生き方は、自分ができないだけに更に敬意を覚えるのみです。当時、宣教師達と地元人の間で、個人レベルでのさまざまな喜びや充足はあったとしても、その業が現在、共同体として期待値を満たしているのかどうか...。
現在の形がどうであれ、やはり、信仰に基づく真の善意から発せられた事業活動は、決して埋もれることがないだろうというのが、私の考えです。第一、どうして、あのシェラベア博士の活動詳細が、この私にゆだねられているのか、考えるだけでも不思議です。伝統的イスラームは、キリスト教を一段低く見て、中心信仰を否定すらします。しかし、その結果、何がもたらされたでしょうか。学問的潮流だとか政治外交的発言だけではなく、本質をもう少しじっくりと見極めたいものです。
聖書のお話には、(まさかそんなことありえなかっただろう)と思われるような単純素朴なものも多いかと思われます。けれども、よく私が考えてみるのは、もし聖書の物語やお話が存在しなかったら、この世の中はどんなに殺伐として平板であっただろうかということです。既に存在しているものとして聖書を理解するので、さまざまな論議を呼ぶのであって、もしお話そのものの存在すらゼロであったら、さらに深刻な確執が発生していたかもしれないのです。