ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

発表の補足説明を

学会が終わると、たまった家事やら(頭および心の)整理やらで、どっと疲れてしまいます。
仙台の気温は、大阪よりも数度低いと表示されていたのに、到着してみると、大阪とは別の暑さを感じました。でも、心配していた台風9号直撃は、どういうわけか直前になって小さく右折してしまい、おかげさまで飛行機に無事乗ることもできました。
この頃は、何ヶ月も前から準備していても、直前まで資料を見てこまごまと直したりするために、当然のことながら、睡眠不足のまま出発。それでもうっかりミスがでてしまうのです。もう、昔のようにお化粧やアクセサリーやコンタクトどころではありません。なりふり構わず、義務感だけで前進、といった感じです。資料も、どうしてもコピーがきれいにとれず、小さい文字が枠をはみ出してしまいますが、時間も限られているので、申し訳ないけれども、参考程度でいい、口頭発表は内容の筋が伝わることが大事だから、と(自分勝手に)割り切ってしまっています。
「大変なリサーチですね」と、同情的に言われることが多いのですが、私だって、最初からわかっていたら、こんなことは始めませんでした。体力的、時間的に、男性並みの正規職を持ちながら子育てもされている女性は、どうやって自分の勉強も続けながら研究発表の準備を整えられているのでしょうか。私には、とても無理です。ある程度まとまったら、さっさとやめて、次の勉強に入りたいと、いつも願っているぐらいです。

今回の発表テーマのリサーチで最も感じたのは、宣教師にもいろいろあったものの、現場で何かに触れて考えが変わっていく人と、本国で教わったままをまっすぐ同じ場所で25年も続けていく人とでは、後世の評価が違ってくるということです。時間がなくて充分に言い尽くせなかったことや、用意したレジュメ資料も、宿泊したホテルで、ハサミでかなり切り取って省略したことは残念でしたが、質疑応答で、少しは予想もしていたものの、(あ、出ました!)というコメントがあったので(でも、後でかなり響いた)、ここに書き記すことにします。

今回の主人公であったB師の問題点は、ロンドン伝道会の本部の代表者が現地視察した時の評価として「彼は近代教育を受けたことのない人のような感じだ」というコメントに見られるように、「イスラームを理解していない」という以上に、「他者から学ぼうとしなかった」という点にあるのです。また、さまざまな先行研究が「彼は混乱していたのだろう、誰に向かってそんなことを表示しているのか、自分でもわからなくなっていたのだろう」「適切な神学教育の不足のために、苛立っていた宣教師の一人」「神からの召命と感じて遂行した仕事と現地での格闘」と批判しているような、ロンドン伝道会初期の、しかも(現地の事情とは無関係に)中間準備地点と位置づけられた海峡植民地に宣教師を派遣した、方針上の問題と人選の欠陥および宣教師教育の未熟さなどが考えられると思います。
また、マレー伝道を志す人が少ないからといって、すべての宣教師が現地でムスリムに対して挑発的なパンフレットを配布していたとは文献資料上からもいえず、その点でも、B師は特徴的だったと思われます。
時間がなくて読めなかったものの、レジュメにも書いたように、ムスリム代表者9人からのペナン政府宛書簡で「これまで私達は多くのキリスト教宣教師達に会ってきましたが、あのような宣教師は初めてです」と明言しているのです。
第一、他人の土地に拠点を置いて、外来の新しい宗教であるキリスト教に人々を惹きつけようとするのに、まずは相手との良好な関係を築かないで、どうして人が寄ってくるのでしょう?「私は邪悪な道を教えに来たのではなく、真実の道を教えに来ました」「あなたは間違っています。よく比べてみなさい」などと直言して、ビラをばらまいて、それで簡単に改宗するほど、マレー人共同体はヤワではないのです。20年もやっていながら、そこに気づかず、むしろ得意気になっていたこと、しかも、1950年代にシンガポールにいた長老派の宣教団までが、突然のように1800年代前半に生きたB師を思い出して、ヒーローあるいはモデルのように転載記事を扱っていたこと、これはやはり、マレー・イスラーム研究の進展した現代的観点からは相当な問題あり、と思われます。
ただし、一つのパラドックスは、B師のマレー学校は当時7校もあり、140名の生徒が来る「海峡植民地で最も成功した学校」だと報告されていることです。当然のことながら、宣教師同士の競争も野心もあったでしょうし、B師夫妻のそれなりの努力もあったでしょう。また、数を誇張して報告していた可能性も考えられます。
しかし、彼の死後、ロンドン伝道会のペナン拠点は閉鎖され、彼の学校は今や影も形もなく、ただ葬られたお墓が観光スポットになっているのみです。
また彼は、宣教地を拡大しようとして、半島部に視察旅行をした時、スルタンにも面会して、聖書を目の前で広げ、宗教談義をしました。この時、彼の方はスルタンがキリスト教の救いなどについて質問する態度から、キリスト教に改宗する可能性を期待していたのですが、スルタンの方は、ただマレー文化の丁重さから、客人(稀人)を礼儀正しくもてなそうとしただけだったかもしれず、あるいは、イスラームの長としての責任から、キリスト教を知っておこうという考えだったかもしれないのです。このミス・コミュニケーションは、後世のオーストラリアの研究者から指摘されています。
一方、オックスフォード大学修士卒の英国国教会チャプレンで、当時、例外的に意欲も能力も高かったH師については、同じキリスト教であっても、土地の状況を調べた上で「宗教の違いに関わらず、諸民族が共に学べる学校」を建て、その学校は名門校として現在まで続いています。卒業生は各界の指導者となっています。また、彼の発案の教会も、当然のことながら、今も続いています。戦時中、日本軍に一部爆破(誤爆との説もあり)されたとも明記されています。ただし、彼の場合、尊敬され、言及はされても(これまで知る限り、正面切って)研究されることがなく、当時の宣教ジャーナルからも、1960年代以降の「まずい事例」の研究対象としても、むしろB師の方が名前の頻出度が高いということ、です。
カトリックの大神学校も、シャム(現タイ)から追われてペナンに落ち着き、当時のスルタンにも受け入れられて、むしろ歓迎されていたようです。もちろん、今でも大神学校は、東南アジアのカトリック司祭養成の場として、続いています。
私が言いたかったのは、カトリックプロテスタントも、マレーの地で宣教活動をするのに、当時から、スルタンなどムスリムとの友好的な関係がまずは重要であったこと、目先の数だけで永続的な成果は判断できないこと、今でもずっと続いている施設は、やはりそれなりの遠望と地元にとっての利益および支持あってのことだ、ということです。
話は飛びますが、この話、現在の日本の教会不振の問題を考える上でも、どこか参考になることがありはしないでしょうか。