ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

伏見のキリシタン史跡めぐり (1)

石井桃子先生の自叙伝風長編小説二冊を読み上げた後、どっと重い気分になった理由は、第一に、私がそこまで人生を物理的にも精神的にも生きていないからだろうと思います。“MOE2009年3月号第31号第3号)には、この本が80代に8年かけて執筆されたと書いてありました(p.33)。102歳まで長生きされ、良質の作品を数多く世に送り続けられた方が、8年もかけて書かれた本を数日で読もうというのだから、読むことは読めても、中身を受けとめるのがどっしりと重たいのは、当然でしょう。
結核で若くして亡くなられた親しい友人からの大量の手紙も、ご自分宛のものは、戦前、日に当てて干して消毒(?)してから日付順に並べて箱に入れて保存されていました。と同時に、70代ぐらいになってからは、友人筋からも集めて、一通ずつ手紙の要約をつけて綴じ込み、図書館で文献にあたって、一つ一つ細かく事実確認をして、友人の話と照合しながら、気持ちと記憶も整えつつ、ようやく執筆されたという丁寧さです。その手紙の一部であろうものは、本文中に引用されています。筋を追うだけでも、どっと疲れる読書でした。
と、種類は違えど同じような疲れ、というのか、私にとってある程度の時間が必要なテーマが、京都とキリシタンという問題です。私も一会員であるキリスト教史学会でも、キリシタン研究者は目立ち、よく発表されていますが、それでも、実際に現場に出かけて説明を聞き、往時に思いを馳せ、処刑されたキリシタンの気持ちを想像すると、やはりどぉんと重苦しい気分になります。何と表現したらいいのか....。
京都を知るには、権力者や為政者が関与した、いわゆる「光の当たる」歴史の部分と、その「光」を支えたり、「光」のために陰に放っておかれた人々の存在の両方を見ておく必要があるかと思います。前者の部分は、中学や高校の歴史教科書で触れられている部分、または、いわゆる観光ガイドブックに書いてあるもの、であり、後者は、そこから意図的にか思慮なくか外されてしまっている部分です。両者は合わせ鏡のような位置関係にあり、一方だけでは理解も半減といったところでしょうか。
これに気づいたのは、1997年秋に、結婚のため関西に居住するようになってからでした。もちろん、名古屋にいた頃から話には聞いていました。けれども、見ると聞くとは大違い。本当にカルチャーショックでした。これが同じ日本か、というぐらいに...。
特に、新聞を読み、記事の扱い方や地名の読み方などがかなり違うことに気づいて、びっくり。対応策として、時間をかけてノートまで作りました。おかげさまで、今はある程度慣れてきましたが、まだまだ京都はよくわからない場所が多過ぎます。外国人が京都では殊更親切にされるというので喜んでいますが、私は外国人じゃないので、そんな利便にあずかれるはずがありません。しかし...。
私にとっては、故林屋辰三郎先生の『京都』(参照:2007年10月27日付「ユーリの部屋」)や故松田道雄氏の『京の町かどから筑摩叢書1968年)などが、京都を知るのによい導き手だったと思います。
前置きが長くなりました。今回、「京のキリシタン史跡を巡る・伏見編」に申し込んだきっかけは、とかく伏見といえば観光旅行風には「お酒」であっても、普段の私の行動範囲からは、なかなか行けない/行かない地域、しかも、見学コースが「鳥羽湊跡」「伏見湊跡」「伏見教会跡」「晒し場跡・牢屋跡」「処刑場跡」といった、一人では難しい場所だったからでもあります。
京のキリシタン史跡巡りシリーズは、今回が3回目で、昨年、洛西編と東山編がありました。その時は、バプテスト連盟教会の牧師の先生が「妙心寺」「椿寺」「大徳寺」「南蛮寺跡」「26聖人発祥の地」「カトリック河原町教会」「元和キリシタン殉教地」「十念寺」「蘆山寺」「上京教会跡」「一条戻り橋」などを案内されたそうです。妙心寺大徳寺カトリック河原町教会も南蛮寺跡も、もう行っているので、その時は参加を見送りました。
元和キリシタン殉教地は、昨夏にシンガポールから美術教師グループが学会発表のため来日した際、一人の中学のカトリックの男の先生が、こっそりとメールで「ここでお祈りをささげたいんだけど、ホテルからどのぐらいかかりそうですか」と尋ねてきたので、よく覚えています(参照:2008年8月9日付「ユーリの部屋」)。結局は、時間の都合で行けなかったそうですが、「日本でキリシタン列福式があるのだから、これからも日本に祝福があるよう、祈っていますよ」とお返事をいただきました。こういう時、さすがはカトリックだなあと思いますねぇ。
話はいささか脇へ逸れましたが、今回はキャンセル待ちが何名か出たほど、申込多数だったとのご連絡を事前にいただいていました。定員は25名だったものの、マイクロバス一台では不足のため、関西セミナーハウスの所長さんが運転されるワゴン車と自家用車一台も動員してのツアーでした。とはいえ、白髪の60−70代ぐらいの方が圧倒的に多く、私など一人で勇敢に、世代的にも場違いなところへ飛び込んだ感じです。そのためもあってか、所長さんがとても気を使ってくださり、ご講義前には「すぐに来られましたか」と声掛けがあった他、ワゴン車では「ユーリさん、お久しぶりで」、解散前にも「またプログラムにもご参加ください」と言っていただきました。一言申し添えますと、このたびは、ペットボトルのお茶1本とラムネやチョコレートやあられや飴などの入った袋も頂戴しました。これにはびっくり。なんだか遠足みたいで...。
若い人がいないのは、多分、‘学問の都’としての誇りを持つ京都では、20年以上も前から、全大学がコンソーシアムの制度を持ち、特徴のある講義には、所属大学を問わず、どこでも学生が自由に出かけて受講し、単位交換が可能な仕組みがあるためでもありましょう。以前から、東南アジア学と並んで、「伏見学」という領域があると、京大の教授から聞いていました。今回の講師でいらした三俣俊二先生も、伏見学シリーズで、「伏見とキリスト教」を担当されたそうですが、「長崎とキリスト教ならわかるけど」と言われたと漏らしていらっしゃいました。案外、世間ってそういう冷たいところがあるもんですね。
集合場所は、聖母女学院短期大学。初めて訪れる場所でした。広々とした敷地できれいさっぱり清潔な雰囲気。守衛さんがとてもにこやかで親切で、すれ違う女性の先生達も皆、会釈してくださるのにも、なつかしくも新鮮な感じがしました。名古屋のカトリック幼稚園がこんな雰囲気でした。学会で以前行ったことのある麗澤大学九州ルーテル学院大学でも、確かこんな風でした。やっぱり、学校たるもの、お勉強だけじゃだめってことですよね。
今回のご講義は、1年30回分の講義を端折った内容に相当するものの、「これだけやってたわけじゃない」とは先生の言。そして、「宣教師の記録は細かく大量にあり、すごいもの。学ぶことが多かった」と言い添えていらっしゃいました。今は野洲に住んでいらっしゃるそうですが、昭和40年代に京都に来られ、いろいろと実証的なキリシタン研究を続けてこられたようです。
レジュメはB4三枚を綴じたもので、ロドリゲスの『日本教会史』、ルイス・フロイスの『日本史』、『イエズス会年報』(1614年度・1615年度・1616年度・1619年度)からの抜粋、「芦浦観音寺文書」、そして「伏見城キリシタン史跡所在地図」一枚と御香宮蔵の地図二枚が縮小コピーで加えられていました。国文学科出身者にとってはなつかしい『日葡辞書』にも言及され、本当に進路を徹底的に誤ったのではないか、と...。

明日、この続きを書きます。