ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

軽佻浮薄の時代に

伏見とキリシタンのテーマは、伏見という土地柄もあり、真剣に考えれば考えるほど、やはり重たい問題です。日本史あるいは京都史または日本キリスト教史の貴重な一側面だとはいえ、だからこそ軽々しく扱えないなあ、と改めて思います。4時間たっぷり、車での移動中も無線で先生のお話を聞きながら伏見を巡ったので、そんなに簡単には消化しきれない面もあります。特に、名古屋出身というよそ者だからの視点も含まれますし....。
名古屋だって、良くも悪くも全国に名をとどろかす為政者が出て、長い伝統と文化の歴史を誇る土地です。堅実な名古屋人の血を引き、ご多分に漏れず私も、地に足をつけてしっかり、という教育を受けてきました。学部時代に国文学を専攻したのも、元はといえば、自分のルーツを言葉や文学から辿りたかったからでもあります。それでも、関西に来れば、名古屋の人は保守的だとか、関西よりも小さい町だからとか、一面だけで判断されて、なかなか内実を見てもらえません。
11年目の今も、決して仲間に入れてくれない京都という町。大学や図書館や買い物や食事などの施設利用では充分楽しませてもらっているものの、絶対に生粋の京都人とは友達にすらならせてもらえない、家にも上がらせてもらえない、という場所....。きりりと一線を画している古都。千年の都の誇りと陰。
メモとレジュメは昨晩のうちに整理し、ファイリングも済ませましたが、もう一日だけ時間を置かせていただければと思います。時間をとったからといって、たいした内容が書ける保証もありませんが、自分の中である程度納得いくまで整理してから、というのが私のやり方です。
というわけで、今日は、昨日の続きとして、石井桃子先生の自叙伝風小説『幻の朱い実』から、印象に残った箇所を書き抜いたメモの一部をご紹介いたしましょう。かなりの長編だと思うのですが、上記とは別の意味で、一文一文が重いものです。
(上)
「いいえ。はじめに型とゲージきちんときめて、本に書いてある通り、ごまかさないでやってゆけばできます。」(p.19)
大学部一年生のとき、熱心に出席したバイブル・クラスの時間に得た、「汝の神を試す勿れ」という、大げさにいえば、一つの哲学めいたものがあった。(p.94)
独りで生きてゆくことを、本気に考えはじめた方がよいのかもしれなかった。(p.166)
まえに反戦論者で、協会から満洲(ママ)まで派遣されて、あっちに住んでいる日本人のおくさんたちに、日本は満洲(ママ)をとるようなことはしませんていってきたひとがね、『闘え、闘え』なんて聖書の言葉ひいて、演説ぶつじゃない(p.172)
『何人も、その能力以上のことをする義務はない』−ローザ・ルクセンブルグ(p.173)
・イギリスってね、小さくても、がっちりした、歴史のある地道な会社があるんですよ。そういう点じゃ凄いですよ。商売で固めた国ね。(p.192)
時世に動かされないで、固く、ながくやれそうな仕事のヒントを外国の雑誌から拾ったときなんか、リストにしておきたいと思ってたところなんです。目先のことだけ追ってたら、うちなんかすぐつぶれちまいますからね。(p.195)
あのひとにはあのひとのわけがあり、あたしにはあたしのわけがあり...破れ鍋にとじ蓋って、じつにうまい言葉だなあって、つくづく感心する。(p.327)
それに世の中、こういうふうにむずかしくなってきますとね、仕事は縮んでいくように見えるけど、ほんとはあたしたち、勉強しなくちゃならないことが、山ほどあるんだと思うの。(p.356)
(下)
大正デモクラシーって、昭和になってプロレタリア運動が大きくなる蔭で頽廃していったわね。(p.324)
あなたは、まっすぐ育ったからわからないかもしれない。あなたがあんまりまともだから、ふうちゃん、あなたに妙なことできなかったと思う。(p.327)
何か自分らしく考え、自分らしく生きようとする(p.328)
ひとは自分をどう見てるかなんてことに、あまりかかわる必要のないひとの口のきき方。(p.329)
そしていま、こういうふうに物を考えられるのは、おかしないい方かもしれないけど、やっぱり憲法のおかげだなあって...(p.330)
(引用終)