ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

伏見のキリシタン史跡めぐり (2)

昨日の続きです。
参加者について書き加えますと、京大名誉教授の水垣先生ご夫妻など、「先生」と呼ばれている方もいらっしゃいました。水垣夫人は、ベレー帽がよくお似合いの上品な方で、積極的にいろいろと質問も出されていました。かくありたいものですね。また、ご病気で上半身がしびれていらっしゃるという男の先生も、杖を広げると椅子になるという便利な道具をお持ちで、お疲れになると、途中で座って休まれていました。そうまでして、400年も前に生きたキリシタンの殉教の跡を辿りたいという熱意はどこからくるものなのか、よく考えてみる必要がありそうです。
例によって、「それがどうしたんですか」「それと専門とは、何の関係があるのぉ?」「マレーシア研究における位置づけを示せ!見せ方が悪い!」「自分だけわかった気になるなよ」などという‘非常識’なコメントが出そうなので、ここで先手を打っておきます。
昨日も書いた河原町三条のカトリック聖堂は、守護聖人がフランシスコ・シャビエルです。そして、ムラカ(マラッカ)にいた頃から、シャビエルは「ミヤコ(京都)」へ行きたいと願っていたのだそうです。念願かなったのが1551年1月。11日間京都に滞在すれども、みかど(天皇)に面会かなわず、御所にも入れず、結局、鳥羽湊から乗船して堺に向かったというのです。その時に唱えたのが詩編114章とのこと。今回、シャビエル一行が通ったという道を、我々も辿りました。鳥羽湊は、現在、比較的広い辻道になっていて、知らない人はそのまま通り過ぎてしまうでしょう。(では、なぜその場所に石碑でも立てないのか、という質問に対して、三俣先生は、「特定の宗教のみではできない。行政は難しい」「カトリック側も、川端の六条河原の石碑は建てたのだけれど」とお答えくださいました。)
それに、当時のキリスト教布教は、秀吉で躓いたというのですが、その秀吉の出生地は名古屋の中村区。高校の時、自転車で橋を渡って通いましたが、実はその橋の名が、秀吉公にちなんだもの。あの一帯は広く、秀吉、信長の活動拠点だったのです。
また、三俣先生のお話にも、「クアラルンプール」という地名がちゃんと出てきました。そして、2001年8月に表敬訪問させていただいた二代目のクアラルンプール・カトリック大司教とのお話中、マニラや高山右近の話が出てきて(http://jams92.org)、しっかりと、高槻カトリック教会との連携ができていることが判明したわけです。
このように、日本とも充分つながりがあるのですから、あまりマレーシアの教会を「異文化」扱いしない方がいいのでは、というのが私の考えです。
京都からは、福者が52人認定されたそうですが、キリシタンとして、耳を切り落とされ、見せしめにあい、室町通りや京町通りを引き回しにされ、捨て札で恥さらしにあわされ、残酷に処刑されました。ただ、さすがはカトリックですね。400年たったとはいえ、きちんと記録が残っていることもあり、日本でもしっかりした実証的研究があるため、こうして霊魂を祝福する大がかりな儀式がなされたのですから。やっぱり、ヴァチカンがバックについていると、こういう一種の「安心感」といってもいいのかどうか、そういう基盤に支えられている面がありますね。うらやましいなあ。一方で、そういう儀式のおかげで、実は自分の祖先がキリシタン殉教者だったということを初めて知ったという人もいたらしいです。「子孫、しっかりせいや!」と、大阪のノリで思わず突っ込みを入れたくなりそうな....。
でも、それも仕方のない面もあります。京橋は「伏見で最もにぎやかな場所」と記されていたそうですが、その辺りや伏見湊も、今ではすっかりさびれてゴミが浮いている始末。「伏見」とは、語源が「伏水」から来ているようですが、高山右近も、この辺りから長崎に流されたそうです。そして、蓬莱橋の辺りは、昭和30年頃まで遊郭で、梅毒検疫所もあったとのこと。今では、一杯飲み屋さんになっているそうですが、川縁からふと見上げると、マンションや民家が建ち並んでいました。
さて、次は伏見の教会跡。ここは今、伏見南浜小学校の校庭になっていますが、資料によれば、高山右近の所有地だったようです。将軍の許可がなかったため、概観は一般民家のように建て、中は教会堂という作りにしていたとのことです。行き止まりのブロック塀も歩かせてもらい、「高山右近もここを歩いたんですよ」との先生の言葉に、往時を偲びました。「ここがそのまま残っていて、うれしかった」とも。
ここらで一息入れましょう、とのお計らいで、「近代化産業遺産」と認定された月桂冠大倉記念館へ。ここで、三種のお酒を試飲、ついでに奈良漬けも一口試食。おいしいという水も飲ませてもらいましたが、これは、我が町も名水の湧き出ることで有名ですから、(う〜ん、どうかな)ってとこでした。
広い庭に出ると、「キリシタン灯籠」らしきものが置いてありましたが、先生のお話では「研究者は信じようとしない」。でしょうねぇ。頷けるところです。キリシタン宣教師とお茶人とは近い関係にあったために、お茶人が南蛮風のものを尊重して作らせたのではないか、とのこと。この手のものは、偽物が多いそうです。逆に言えば、それだけ権威を感じている人がいるということですね。
お土産に、一缶日本酒をいただきました。
その後、牢屋跡へ。京都大学附属図書館蔵の「寛文十年山城国伏見」街近郊図には「籠屋」の記載があるとのことです。昭和4年の役場地図では「伏見憲兵分隊」の記載があり、現在では、大阪国税局伏見寮敷地に相当するとのご説明でした。国家の所有地というものは、それほど敷地が移動しないため、研究者にとっても探しやすいそうです。元はキリシタン牢屋だったところが、後に憲兵隊関連地となり、その後、国税局の寮になり、現在は空き家であり、近く解体作業が始まるなど、部外者にとっては、その変遷を辿るのが興味深いところですが、寮生の方にとっては、とんでもない迷惑な話です。先生も、「最初の頃、失敗した」と正直におっしゃいました。「マイクを持ってここは牢屋でしたと説明していたら、寮に住んでいた国税局の人が窓から顔を出して、いやそうにした。それからは、車の中で事前説明をし、当地についたら、黙って指だけさすようにした」とのことです。歴史研究者のご苦労がしのばれるところです。
解体後は、この辺りの通例に従い、発掘作業をするそうで、先生も楽しみにされているようです。そういえば、伏見城も発掘作業が始まったとか。この辺りは、歴史の宝庫ですからね。
明日は、この続きを書いて、現在のキリスト教から見た私なりの意義づけを添え、〆とさせていただきます。