ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

七草粥のいい日

昨日は、なかなか充実したいい一日でした。
まずは、以前から知り合いだった教授から、学会に入会のお誘いを受けました。早速手続きをさせていただいたのですが、圧巻は、入会申込みのアンケートです。これまで、さまざまな学会を渡り歩いてきましたが、だいたいどこでも、どなたか推薦者のサイン一つ、あるいは、自分で申し込み、会費さえ納め続けていれば、会員資格は維持できる、というものばかりでした。しかし、この学会では、事前に、略式ながら自己分析をし、意志を明確にする作業が必要なのです。初めて経験するものでしたが、これはいい方法だと思いました。
私の場合、マレーシア経験が長い割には、マレーシアの枠から結構はみ出しているので、これまで研究発表をしても、時々、「こっちの知らない内容は発表するな!」「自分だけわかった気になるな!」と怒り出す人が一部にいました。そう言われても、こちらとしては、別にペダンティックに振舞っているつもりもなく、困惑するばかり。第一、幼稚園の時にカトリックの文語訳の祈祷を教わって以来、ずっと、ことばの問題に興味を持ち続け、キリスト教って何だろう、と考え続けながら日々を暮らしてきたのです。また、音楽が好きで、いろいろな楽譜やレコードの解説書を読みながら大学院まで音楽学校に通っていました。専門として身につけたわけではなくとも、自然に蓄えられたものがあって、それに支えられるような形での発想が出てきてしまうのは、致し方ないのではないでしょうか。
または、「私達とやっていくなら、こちらの考え方に合わせてくれないと困る」という意味のことも言われたことがあります。それは、正直に言って、おかしな発言だと思いました。第一、出身校も専門分野も異なるので、その人に合わせる義理も必然性も、公私共にないわけです。そんなことを言われるなら、いつだって出て行く用意はあります。たまたま地域が重なっているというだけで、万華鏡のように多様な現象について考えるのに、こうすべき、と枠にはめるのは、いかにも奇妙なことです。アカデミズムでは、何よりも新しい発想が命です。先輩面して、自分の知らないことを年下が言い出したからといって、いちいち抑えつけていたら、組織の発展など望めません。
ですが、上記学会の場合、もちろん、ディシプリンの規定は明確化されているものの、基本的な問題意識が共有できていれば、「物の考え方に慣れてほしい」ということで入会を勧めてくださったようです。イスラエルアメリカのトップの大学で学位を取られた先生だけあって、考え方が広く、柔軟で深く、独自性があります。これは、少し前に、若い人達からも聞いたことがあります。学生さん達に人気がある秘訣は、本場で勉強されたという点にあるようです。私の研究テーマに関しても、初対面ですぐ、「あ、それはね」と言葉を添えてくださり、それがまたぴったりだったのです。別の日には、その先生が主催された記念行事に招待状をいただき、恐る恐る出かけていくと、これまた初対面の偉い先生から呼び出されて、研究内容について鋭く尋ねられたこともあります。これも実に的確で、恐縮すると同時に、激励された思いでした。

ですから、新年早々、自分の領域を広げていくよいチャンスが与えられたと感謝しています。これから、がんばるぞ!

その他には、お年賀状が数枚届き、これまたうれしい言葉が書かれてありました。一つ感じたのは、聖書に関して研究したり学んだりしている研究者とは、表面的には分野が異なり、所属や学歴が違っていても、根底で共感し合える点が多いのではないかということです。これが、広く世界中の人々に読み継がれてきた古典である聖書の醍醐味です。

何だか、幸先がよさそうな出だしです。七草粥にも祈りがこめられていると感じました。