ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人の判断

しかし、英語でもドイツ語でも、原文に相当する文献を(必ずしも暇ではないのに)丁寧に調べてみると、いかにも恣意的というのか、自分の主張に合うような箇所だけ、無理やり、もっともらしく引用されているというのが、腹立たしさを超えて、脱力するところです。しかも、他の文献にもコピペのように繰り返し出てくるので、これはいわゆる‘確信犯’ではないか、と。
それに、根拠として引用されているものが、いかにも平板というのか、場当たり的、寄せ集め的な印象を与えるのです。背景や文脈や前提がまったく無視されているからです。
しかも、本当の語学力不足で誤っているならまだしも、微妙に真偽が混じり込んでいるため、いちいち確かめなければならず、厭になります。いかなる主張であろうとも、はっきり言って、人を惑わしているという点で、無責任そのもの。
私がこのように繰り返し調べている理由は、どこか曖昧だった事の真相を明らかにしたかったという一点に尽きます。なんだか私が意地悪くいじめているようにも受け取られかねないので、念のため補足しておきますと、ご本人は、数ヶ月前、確かに「私はドイツ語が話せますから」と、公の場で、ご自身からおっしゃいました。(それを聞いたうちの主人は、「本当に話せるなら、そんなこと言わないんじゃないか?」と。その後、自宅でドイツ語のニュースやドイツの古いクラシック音楽の番組(カラヤン時代のもの)を見ながら、「あの先生、このドイツ語、わかるかな?」と独り言。)
数年前、ある学会で知り合った若い女子院生さんに、「あの先生は、××年に、●●国で▼▼の話題についてドイツ語でスピーチされたらしいですよ」と話すと、「えぇ!ほんとですかぁ!」と大変に驚いていました。ついでながら、マレーシアに関する記述に関して、二冊の文献上で、これまたもっともらしく、まったく同じ文章で書かれてありました。たまたま私は根拠となる原資料を手元に持っていた上、自分で書いた文章に引用していたので、一目で間違いだとわかりました。そもそも前提文脈が大幅に違っているというのか、現代マレーシア史を少しでも真面目に勉強したことのある人なら、そんな解釈になるはずがない、ということもあったので、そのことも併せて彼女に伝えると、初対面だったのに、ものすごく大笑いして、非常に受けていました。
今日届いた別の学会の書類を見ると、知り合いの先生が新たに入会されていました。その先生にも、この春、「あの先生は、●●国に行ってドイツ語で演説されたので...」と話したところ、(え?そうかな?)と、首を文字通りかしげていらしたのを思い出します。
皆、どこかで気づいているのですね。これが一番恐ろしいところでもあり、安心するところでもあります。しかし、これほどまでだったとは....。
いい夏の経験になりました。って、ちょっと文脈が違いますか、これ。