ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

社会変革としてのキリスト教

政治的にも経済的にも倫理的にも、停滞下降気味の現代日本社会において、打開策としては何が求められるのでしょうか。おとといの夜9時半、突然、福田首相が辞任表明した時にも、メディアでは「海外の反応は?」などと他者の目を意識する報道が目立ちました。もっとも、EUではほとんど無視され、アメリカも注視することなく、韓国や中国や台湾のみが、隣国とのことでニュースにしたらしいですが、そんなことは、わざわざ調べるまでもなく、わかりきったことです。
福田氏については、前首相があのような形で政権を突発的に放り投げてしまったので、おそらくは、とりあえずの体制維持とつなぎの意識で首相に就任されたのだろうと思います。ただ、外交面では、中国や韓国との間で、ある程度は関係修復を試みた形跡が見られますし、北京オリンピック洞爺湖サミットも何とか事故を起こさずに済ませることができました。憲法改正問題や靖国問題皇室典範などの微妙な問題も、凍結というのか一時保留状態になったので、一般市民に考えさせる時間を与えたとは思います。その点では、確かに、「政治家はやめ時の決断が重要だ」と一年前に言われていた通りを実行されたのかもしれません。今の状況では、誰が首相になったとしても難しいでしょうし、批判をするのは簡単です。でも、何でも政治のせいにするのではなく、社会の構成員である我々一人一人が、もっと自立して堅実な歩みと展望を心がけることが大事なのではないか、と思います。
その場合に必要なのは、軸となる哲学や思想および現実を見据えた具体的行動ですが、いったい、何を基盤にすればよいのでしょうか。
ここで話は変わりますが、昨日、クアラルンプールにあるウェスレー・メソディスト教会の2006年11月の週報とホームページを見ていて、マレーシアのキリスト教における活力の一端を知った思いでした。ちょうどこの夏は、明治時代のメソディスト教団の会議資料などを読んでいたこともあり、何もなかった所から、一軒一軒回って声をかけ、掘っ立て小屋のような家屋で識字教育とバイブル・クラスを開き、学校を建てていった宣教師達の活動が、現在、教会としてはこのように花開いているという現実を見させていただいたように思うのです。
ビジネスであれ、教育であれ、家庭形成であれ、小さなところから芽を出して、だんだんと伸びゆく様子に触れることは、私にとって大きな喜びです。この教会は、華人やインド系の中流階層が中心で、ベンツやボルボBMWを運転し、称号を有する博士や名士や、大臣までもが集っていますが、去年の段階で、2000名以上のメンバーを計上するのだそうです。もちろん、日本の立場から批判を加えることは容易です。例えば、「西洋化したエリート層や中上層をひいきにしたキリスト教宣教師の戦略」「西洋植民地文化の傀儡模倣」などのように。確かに、それは全面否定できるものでもありませんし、教会員自らが教会史で記述しているところです。ただし、もともとは中国語と英語を使用する教会として始まったものが、今は英語のみの教会に発展し、姉妹教会もあちらこちらにできているのです。ということは、種まきをしたのは西洋宣教師であっても、種を受け入れる選択をし、育んでいったのは、地元の人々なのです。華語系メソディスト教会も近くにありますが、建物が分かれていて、英語使用教会の方が遙かに発展していることがわかります。しかし、マレーシアにおける中国語の経済的重要性と華語学校のしっかりとした教育は、多くが認めるところでもあるので、英語に必ずしも吸収されるのではなく、併存の形をとっているわけです。
この教会では、毎週の家庭祈祷会もさまざまな場所で開かれていますが、(結構いい場所に住んでいる人が多いんだなあ、どういう仕事をすると、そのように裕福になるんだろうか)などと想像するのも、また楽し、です。同時に、こういう教会を牧会される牧師も、相当の力量がないとやっていけないだろうなあ、と思います。今の牧師の二代前の方が、表面的には礼拝説教でもよく笑いをとるような話をされていたので、相当人気があるのだろうと思っていたら、実は、「あれは、会衆が彼を笑っていたんだよ。一緒に笑えなかったのは、君の英語能力のせいじゃないよ」と教えてくれた人がいました。何が原因かと言えば、「あの牧師は、説教した内容を実践していない、と誰もが気づいていたからなのさ」と。海外の博士号まで持つ牧師で、なまりの少ないよい英語を話す方でしたが、今は引退してひっそりと小さな教会を牧しているとか。イスラーム圏内にある流動性の高い移民系社会で、しかも首都圏の教会牧師は、日本とはまた違った意味で、なかなか大変だろうと思います。それだけに、私としては刺激を受けることも多く、おもしろく学ばせていただいています。
教会で御利益を受けるということはないにしても、教会に連なることで、人生基盤を同じくする人々との交流や支え合いができ、相互扶助が与えられ、コミュニティ・センターのような便宜もあり、しかも社会変革を促すさまざまな社会奉仕の各種グループもあり、子ども達がマレー語教育世代になると、早速、英語教室を開くなど、臨機応変、必要を満たす教会のようです。換言すれば、単純に宣教師の戦略に乗っかってしまったというのではなく、求めるものが得られると人々が感じたからこそ、ここまで発展したのだろうと思います。
日本の事例を見ても似たようなことがあります。今はともかくとして、少なくとも私の学生時代までは、ミッション系学校は所謂「お嬢さん学校」が多く、ある程度裕福で育ちの良い子弟が通うところ、というイメージがありましたし、また、都市部のキリスト教会は、従来の日本社会には見い出せないような進歩的で新しい考え方を人々に教えるところ、という印象を持っていました。そもそも私がキリスト教に興味を持ったのは、幼稚園が白人司祭の経営するカトリック幼稚園で、当時としては非常に先進的で明るい希望を持たせるような教育を行い、その感化を受けたからです。でも、このブログでたびたび書いているように、現在では、どうもニーズに合っていないことが目立ちますし、(その程度の話なら、自分で本を読んだ方が遙かにましだ)(批判的思考を大学教育では促されるのに、どうして教会では信仰ばかり強調し、思考停止をさせるのだろう)と感じることが頻繁に起こりました。それが私一人の問題ならともかく、0.5%しかキリスト教人口が存在しないと言われている現状が、雄弁に物語っているかと思います。特に日本では、従順な信仰を強調するキリスト教会からは社会階層の高い人が出にくく、研究者としても優れた人がほとんどいない、という指摘を読んだことがあります。
需要はあるはずなのに、人々の必要を満たさない組織とは、いったい何なのだろうか、と考えさせられます。世界的に見れば、もうすぐイスラーム人口が上回ると予測されているものの、これまでの統計では、キリスト教人口が最も多いということにはなっています。しかし、日本国内では圧倒的少数派なのです。この逆説をどのように考えればいいのでしょうか。
信じる信じないの問題以上に、きっちりとした学問的批判的客観的な調査をして問題を分析することが、喫緊の課題ではないかと思います。その点、どこかで安住し過ぎていたというのか、個人的な悩み救済に重きを置いていたのが、日本の教会の傾向であったのかもしれません。そうでない教会も首都圏などではあったのかもしれませんが、少なくとも、私の経験ではそういう観察でした。

吉祥寺カトリック教会の司祭である後藤文雄神父さまが、長年に及ぶカンボジアの学校建設活動が認められ、毎日新聞社主催の毎日国際交流賞を大阪で受賞されたのは、ちょうど一年前の9月21日のことでした。(後藤神父さまについては、2007年11月5日・12月11日・12月18日・2008年1月20日・3月20日・4月7日付「ユーリの部屋」を参照のこと。)授賞式の様子をDVDで送っていただいていたので、昨晩、もう一度見てみました。名古屋にいた頃、この神父さまから毎週のように夕食を作っていただき、いろいろなお酒も楽しみながら、上記問題について、さまざまなお話をうかがったことを、今も懐かしく思い出します。世界各国を回っていらっしゃったこともあり、お話が具体的でとてもおもしろかったのです。ある面、進歩的で、柔軟で、若いお嬢さん方が慕う神父さまでいらっしゃいました。私が教会について思うところを率直に打ち明けると、「そういう話を聞くと、もうあなた、カトリックに改宗しなさい、と喉元まで出かかっているんだけど、カトリック教会にもさまざまな問題がある。だから、闘うんだよ、そういう問題は黙っていたらいけない」というお考えだったように記憶しています。
ちょうど94年初頭に、私自身、一年ほど関わっていた、神父さまの14人目の子どもであるカンボジア難民の高校生の勉強のお手伝いに一つのきりをつけ、もう一度マレーシアで暮らしてみようかと決心した頃、神父さまも東京の教会に転勤が決まったことがきっかけで、一端解散となりました。その後、神父さまは、今度はカンボジアで学校作りを始められたのです。その少年は今、「よいお嫁さんをもらい、家まで建てて日本で暮らしています」とのことで、私としてもホッとしたところでした。
カトリック神父のお仕事は、教会で働くことが第一義ですが、その他は、意外にも「自由です。何をしてもいいんです」とのことでした。
今にして思えば、司祭として、何か一つ形に残る仕事をしなければ、と考えていらしたのだろうという心当たりがあります。カンボジアの難民の少年少女を引き取って育てることに関して、授賞式では「楽しかった」「子ども達から教わった。育てられたのはこちらだった」とおっしゃっていましたけれども、必ずしもすべてが順調にいったわけではないようです。その一部はご著書に書いてありますが、結果的には「楽しかった」の一言です。私にも、そのようにおっしゃいました。「あの時は楽しかったねえ」と。
こういうところからも、カトリックだなあ、とつくづく思います。勢力拡大のため、布教や改宗を目しての活動ではなく、ひたすら当該社会や相手の必要とすることに手をさしのべる、という姿勢です。カンボジア仏教美術にも敬意を払われ、授賞式ではスクリーンで多くの仏像をご披露されていました。東南アジア(史)学会の方で見聞していたとはいえ、確かに、美しいものです。(具体的な活動内容を報告したブログを見つけました。徳光一輝さんという方の記録で、アドレスは(http://tokumitsui.iza.ne.jp)です。これを見ると、布教活動と難民救済や学校作りとが結託しているわけではないことが、はっきりと言明されています。)
マレーシアのカトリック新聞『ヘラルド』を見ていると、かつて学校教育や教会指導に関わった外国人シスターなどの訃報記事が時々載っています。厳しかったけれど、よくやってくださった、と書かれているものがほとんどです。もっとも、修道女の送り手であるアイルランドでは、それ相応の複雑な事情があって、マラヤ・マレーシアに事業派遣したのですが、個々の背景や理由はどうであれ、地元の人々に便宜と社会向上がもたらされたのならば、変な理屈をつけて解釈するのではなく、それはそれとして素直に評価してもよいのではないでしょうか。ただし、古き良き時代の思い出として、ですけれども。
とりとめもなく終わってしまう前に、一言付け加えさせてください。あるブログで偶然読んだ話なのですが、3年前の小渕優子氏の結婚披露宴では、大物政治家達が祝辞で「結婚とは、忍耐と我慢の連続」という意味のスピーチをしたのだそうです。その後、立ち上がった緒方貞子先生が、「ご指名ですので、僭越ですが、乾杯の音頭をとらせていただきます。辛抱だけではなく、楽しい楽しい家庭、そして未来をいっぱい繰り広げることのできる家庭を築いてください。乾杯」とニコリともせずおっしゃったとのことです(参照:http://www.ashida.info/blog/2005/02)。失礼ながら、やっぱり(さすがだなあ、賢明かつ建設的な祝辞だなあ)と感じました。恐らくは先生ご自身が、そのように心がけて家庭を築かれ、人生の歩を進められたからでしょう。と同時に、これはカトリック思想の反映でもあるだろうと申し添えたく思います。