ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

憂鬱の理由

教会暦によれば、今日はペンテコステ聖霊降臨の日。
でも、ちっともうれしくなんかありません。せいぜい、2007年3月のイスラエル旅行で訪れたカイザリアの地から、使徒言行録10章に記されている聖霊降臨の話をぼんやりと思い出している程度。あの時には、思わず天井を見上げて、聖霊がどのように降りてきたのか、想像していました。現地に赴くと、伝承に基づくものとはいえ、一種独特の感慨があるのは確かです。
ところで、それぞれの言い分があるにせよ、このところずっと私がこだわっていた件については、やはり、どうしても気が重く沈むべき理由があり、人的側面は別として、もっと慎重にならなければならないのではないかと思い直しました。
もちろん、時間をある程度おいてのこととはいえ、一方的に片方を排除するというやり方に反対であることは変わりありません。恐ろしいと感じているのも事実です(参照:2011年6月8日・6月10日付「ユーリの部屋」)。ただし、あれからよく考えてみると、当の専門家の方にとっては、元々は日本国内の地方の困難な事例を理由としていらしたようですが、一方で、私の場合は、キリスト教全般について考える際、日本国内のみならず、ほとんど常にイスラーム圏を射程に入れているために、どうやら基本的な点で齟齬が生じていることに気づきました。このすれ違いは、私自身が、日本国内のキリスト教系の学会で発表する度に、感じさせられている葛藤でもあります。
マレーシアでは、2009年の前半期だったか、首都圏内の中心にあるカトリック教会で、二人のムスリムが、カトリック教徒を装って聖体を拝領し、その後、床にそのホスティアを捨てて写真まで撮り、イスラーム雑誌に掲載したという事件が発生して、大問題になったことがあります(参照:2009年7月17日・7月18日・7月21日・7月22日・8月14日・2010年2月19日・2月25日・3月4日・3月7日付‘Lily's Room’http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100225)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100304)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100307)。なぜ、ジャーナリストであるムスリムがそういうことをしたかと言えば、教会でマレー人をキリスト教化するのではないか、という疑念が生じていたので、確かめたかったのだそうです。その場合、私も表敬訪問したことのある現クアラルンプール大司教が、賢明かつ寛大な措置をとったために、何とか事なきを得ましたが、カトリック信者の人々にとっては、深く傷ついた事件でもあったようです。ただでさえ、政策上の不利益を我慢させられている日常生活であるからです。
ということを考えれば、カトリック教会が「カトリック式で洗礼を受けた信者のみ、聖体拝領に与かれる」と締め直しているのは、世界中に広がる教会組織であればこそ、よく理解できるところではあります。単に、ベネディクト16世が保守的で堅い人だから、というわけでもなさそうです(参照:2011年6月3日付「ユーリの部屋」)。
そのことと、日本の地方で直面していると言われる事例とを同列に論じることができるのかどうかは、本当によく考えなければなりません。「いや、日本とマレーシアを一緒にしないでほしい」と言われるのならば、そもそも、論の立て方からして矛盾していることになります。世界の教会動向の協議結果が日本にもたらされるとするならば、マレーシアのようなムスリム多数派の国で、実際に発生してしまっている事例をも、世界の動向に含まれるべきだからです。今後、ますます増加するだろうと言われている日本の多元化現象の中で、諸宗教の領域をどのように設定するのか、あるいはしない方向に進めるのか、それこそ、もっと慎重に検討すべきではないでしょうか。
こう考えてみると、私がこのところずっと憂鬱なのは、20年ほどかけて、マレーシアについて調べてきた経験や実感に照らし合わせると、本件の扱われ方に、どこか深いところで、ノリの軽さのような違和感を覚えているからだということに気づきました。
南メソディスト大学のロバート・ハント先生からは、本件に関する日本国内の議論を私が持ち出したことを(参照:2011年6月5日・6月6日付「ユーリの部屋」)、むしろ喜ぶというお返事が届きました。日本以上に(?)、アメリカでは、やはり重要な事項なのだそうです。
最近、同僚の一人が『あらゆる魂をイエスの客とせよ:オープンな食卓の一つの神学』という本を書き、彼と議論もしたとの由。その著者は、ユーカリストの祝いは、洗礼を受けた人々のみに制限するという基準を保持しながらも、洗礼を受けていない人々が「丁重に受け入れられる」べきであるという状況もあると、認識しているそうです。これが、ハント先生の理解では、「アメリカ合衆国の2004年の合同メソディスト教会総会で意見表明された」のだそうです。そして、同じく理解しているところによれば、それは、クリスチャンでない人々をユーカリストへと「オープンに招待すること」ではないとのこと。むしろ、洗礼を受けているという条件なしに、「主を愛し仕えている」すべての人々への招きだ、と。同僚の著者も、これは個人集会の状況に基づくものであるという点で、はっきりしているのだそうです。
ハント先生は続けます。「ここで、宣教観点が重要になる。既述のように、洗礼を受けてない人々が自分をクリスチャンだとみなすことの多いアメリカ合衆国では、そういう人々を退けることは適切ではない。他の多くの場所では、唯一の責任あるアプローチは、ユーカリストの食事が正確に何を意味するのか、はっきりさせることである。そして、誰が参加するよう招かれるべきかについて何らかの区別をつけることである。」
さらに、「率直になるべきだが、著者と本件について議論してきたように、アメリカの信徒達の限られた経験が、合同メソディストの神学として前面に出されるべきではないということだ。私見では、アメリカの神学者達が、自分の経験や参考枠を、キリスト教会全体の規範とみなしがちな傾向を、不幸だと思っている」と、結ばれていました。
ここから、今日の結論は、次のようになります。
私自身は、本件に関して、自分の海外滞在およびリサーチ経験、プラス、期せずして身辺で発生していたことが判明した状況から、自然と関心を寄せざるを得なかったこと。日本国内の事例説明を当事者から聞いて、いったんは納得しようとしたものの、広く世界情勢を鑑みると、日本の地方での諸事例を、あまり拡大解釈すべきではないのではないか、ということ。しかしながら、個々の事例を最大限考慮しようとする傾向は、アメリカ合衆国においても観察され得ること。恐らくは、ラインラント事例の後(参照:2011年6月3日付「ユーリの部屋」)、同じくドイツ語で読んだ、2005年末に書かれたオーストリアの事例も(Die Forderung der Zulassung von Ungetauften zur Kommunion:falsch verstandene Barmherzigkeit?)、何らかの事由あっての意見表明であったのであろうと想像されること。従って、本件は、非常に複雑かつ重要な事柄であって、もっと慎重にさまざまな角度から討議されるべきではないかと、一般人の立場からも想像されること、です。
とどのつまり、最も迷惑を蒙っているのは、実は神学者ではなく、我々一般人なのですから(参照:2011年6月10日付「ユーリの部屋」)。