ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

背景や根本原理を知ること

昨日、ミルトスからの広告を眺めていたら、「ユダヤ暦5769年」とあるのに気づき、(これでは歴史認識や時間感覚が全然違うわけだ)と今更のように感じました。
日本に生まれて一番うれしかったことは、長い伝統を持つ古い国の一つに入ることです。とはいえ、中国の方がもっと古いですし、朝鮮半島からも東南アジアからも多くを学び吸収してきた文化ですから、それほど威張れた口じゃありません。それにしても、当たり前のように使っている西暦や元号(と必要があればマレー語新聞に掲載されているイスラーム暦)だけの表示では、およそ不足だってことですね。世界にはたくさんの古い民族があり、それぞれの文化を営んできていても、滅びてしまった強大な部族や民族も存在する一方、虐げられつつもたくましく生き延びてきた独自の文化を有する民族もいるのです。その違いはどこにあるのか、簡単に答えを出したくはないテーマですけれども、非常に関心があります。
さて、昨晩はペシャワールの会の会報最新号を読みました。相変わらず、創意工夫を凝らしつつ地元の人々の暮らしの向上のために労されています。数年前に、中村哲氏のご講演を同志社大学礼拝堂で聞いたことがありますが、この目の前にいらっしゃる日焼けして髪の毛ぼさぼさ風のお医者さんが、あのアフガンでこれほどの働きをされているのか、と一瞬信じられない思いでした。ある資料によれば、1980年代に仕事を始めた頃は、国際キリスト教医療支援団を意味するグループの派遣だったようですが、現在では、「思想信条にとらわれず」とされています。つまり、「キリスト教」の名をあえて出さないのです。これは、他のNGO諸団体でも似たような傾向があり、元はキリスト教が始めたもの、あるいは代表者がクリスチャンであっても、キリスト教のキ、クリスチャンのクの字も出さないようにしているようです。
アルコール依存症の人々のための治療プログラムを持つ団体も、場所はカトリック教会や修道院を使用することが多いようですが、つい最近までは、利用者に対して「宗教・宗教を持っていても持っていなくても構いません」というような表示を出していたのが、今回気づいたら、そのような表現そのものが消えて、「関係ありません」と書いてありました。
恐らくは、改宗活動の一環であるという非キリスト者からの痛烈な批判を受けての対応ではないかと思われます。また、研究や相互接触が進んだ結果、別にキリスト教でなくとも、他の宗教でも同じような、あるいは似たような教義や実践や現象があるために、わざわざ提示する必要もなくなったのかもしれません。
確かに、余計な表示を出すことで、誤解や妨げが生じているならば、本質を重視するために取り除く必要も、場合によってはあるでしょう。物事の対立や問題点のみに焦点を当てるならば、それを避けたくなるのもわかるのですが、一方で、「なぜ、その人は/その団体は、そのような行動をとるのか」という根本原理を曖昧にしたまま、あるいは無知なままで、表面に現れた仕組みだけ利用するというのも、どうなのかなあとも思ってしまいます。私は、子どもの頃から、ある程度自分が納得するまで、何事も突き詰めて深刻に考える癖があるので、そのように感じるだけなのかもしれませんが。
例えば、昨日もK家から家庭冊子が送られてきてうれしかったのですが、そもそもK家が何か独自の思想を持っているらしいことは、息子さんのGさんがまだ学部生だった頃、ある勉強会で知り合った直後からうすうす感じていました。でも、私から直接そのことを尋ねることはなかったし、もし、冊子が送られて来なければ、具体的には知らないままだったでしょう。娘さんのS子さんからもメールをいただき、「連帯感」とあるのに気づきました。S子さんには、マレーシア人の親しいお友達がいらっしゃることと、私のブログも見てくださっているからだと思いますが、それとて、私がブログである種の「自己開示」をしなければ、あり得なかったことだろうとも思うのです。もっと言えば、マレーシアでイスラーム化がこれほど進行していなければ、私の問題意識もこれほど「長期化」し「尖鋭化」することはなかったでしょう。
実のところ、これはリスクを伴うことでもあるため、私自身、毎日のように迷っている(場合でもありませんが)のが実情です。しかし、玉虫色にしていれば丸く収まるのか、と言えば、必ずしもそうじゃありませんよね。かえって、立場が異なるからこそ、相手のことがよくわかるという側面もあると思います。
先程、また新しい本が届きました。"The Dhimmi:Jews and Christians under IslamAssociated University Presses, New Jersey1985/2008)という厚さ2センチぐらいの結構な本です。Bat Ye'or(「ナイルの娘」の意)というペンネームを使うユダヤ系女性によるもので、原著はフランス語で書かれたようです。この本は、イスラームの悪い面だけを強調し過ぎ、公平感に欠けるという点で、Hugh Goddard教授が批判しています(Hugh Goddard 2000:68)。また、出版物が何冊もある割には大学で教えたことがなく学問的信頼性に欠けるという非難もあるようです。私もざっと目次を見たところでは、確かに一方的な書き方のように思いました。同時に感じたのは、この著者は1957年にエジプトから追放された経緯をお持ちのようで、なぜ実名を出せない/出さないのかという背景も考慮する必要があるのではないかということです。
いずれにしても、批判されている本だから読む必要がない、とも言えないわけで、それこそ「相手をよく知ることで自己の立場を再確認し確立する」姿勢が求められるのではないかと思い、入手してみました。
この方面に関しては、あまりにも知らないことが多過ぎ、日本語文献や日本語に翻訳されたものだけでは不十分だと、最近つくづく思うようになりました。1980年代に学生だった頃、頻繁に聞かされ読まされた考え方として、「日本人は、異文化や国際的な環境に対して無条件にあこがれ、よきものととらえる傾向がある。それは、島国日本では、古代から、他文化の上澄みの良い面だけを上手に取り入れて日本化してきたからだ」というものがありました。当時は、その意味が実感として味わえるほどの経験を積んでいなかったので、(ラッキーな国に生まれてよかった)程度に思っていましたが、今では、そこまで無邪気に自己中心的にもなれません。いくら自分の共同体がしっかりしていたつもりでも、政治的国際的情勢からぐいぐい押されてしまい、人生設計も大幅に変わってしまう人々があまりにもこの地球上には多過ぎるのだと知った以上は。