ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

七夕の日に寄せて

昨日は、何だか読書三昧(?)で疲れてしまい、ブログをお休みしました。
昨年の今頃は、毎日何かしら書ける場とトピックがあることが単純にうれしくて、張り切っていたのですが、このところ、だいたいネタが消化されてきたというところで、落ち着いてしまっています。今後は、ホームページへの移行を考慮に入れつつ、必ずしも毎日ではなくてもよい、という風にしていきたいと思っています。もっと他になすべきこと、なさねばならぬことが、たくさんありますから。
ところで、9月の学会発表が受理されました。このところ、ようやく、3か月に一回の発表ペースです。近年、大学制度が大幅に変更されたこともあり、学会や研究会も急増して花盛り。若い方達は皆さん、評価や就職も絡むからなのでしょうか、たとえ同じテーマであったとしても、発表をさまざまな場で積極的に繰り返して売り込みをかけていらっしゃるようです。その年代だった頃の私は、とにかくがんばってもデータが見つからず、発表の形態をなすレベルに至っていませんでした。これに関しては、今更あれこれ考えてみても仕方がありません。そういうテーマなのだということ、そういう国情と巡り合ったのだということ、です。
そうはいっても昨日は、牧野信也(訳)『ハディースイスラーム伝承集成中央公論社2001年)6巻本のうち3巻を7年ぶりに読み返し、L.ハーゲマン(著)八巻和彦・矢内義顕(訳)『キリスト教イスラーム:対話への歩み知泉書館2003年)を読了後、2006年にいただいた弓町本郷教会発行の冊子2冊を読みました。
ハディース』は、同じような話が繰り返しあちらこちらで出てくることと、非ムスリムにとっては、その重要性がよくわからないようなエピソードが比較的多いことを改めて確認しました。ただし、このような翻訳が日本語で読めるということは非常に重要で、そうでもなければ、英語でさえも読まなかっただろうと思うからです。少なくとも、そこに何が書かれてあるのかの概要だけでも知っておくことは、良好な関係を築く上でも、失礼を犯さないためにも、今の時代は必須だろうと思われます。それにしても、翻訳者の先生の忍耐力には感嘆します。こういうお仕事がきちんと正確になされているかどうかで、その国の知的文化力が図られるのだろうと思います。昔は言葉の上だけで理解したつもりになっていたことについて、最近、ようやく意味がわかってきました。
そして、L.ハーゲマン司祭の労作。これは、カトリック側からのアプローチなので、ルターのイスラームへの態度と解釈などはページ数も多く割かれ、非常に勉強になります。それはそうと十字軍の残虐なこと。また、『ルター著作集』(聖文舎刊)を全く読んでいなかったので、この問題の根深さがよくわかりました。毎度繰り返しているように、私の立場としては、双方の言い分はそれはそれとして理解できなくもないけれども、焦点を当てているのはキリスト教側なので、クリスチャンの認識変遷を学ぶことが第一課題です。しかし、本書は中世に重きを置いているため、現在の歩み寄りと対話路線でどのような成果が生まれているのかについては、どこか口を濁している感触があります。
それから、弓町本郷教会の冊子。2006年12月の東南アジア学会が東大で開かれた時、すぐご近所の教会だったので礼拝に訪れてみたことと、現在のS牧師が数年前まで私の住む町の隣の市で牧会されていて、評判を聞き及んでいたため、です。冊子とは、昇天者もかなり含めたご年配の方々中心の証集で、「教会と私」と題する人生体験記および教会史です。これを読んで感じたのは、時代背景が個人史レベルで具体的に表出されているために、戦前戦時中および復興期の状況など非常に学ぶところが多いことと、信仰を持っていたとしても、どの人の人生も機械のように安定しているわけではなく、中には波乱万丈の方もいらっしゃり、教会生活も必ずしも一定しているわけではなさそうだということです。
繰り返すようですが、節目ごとに、きちんと冊子を編集して発行するという活動は、非常に大切なものだと思います。伝統的なキリスト教会なら、どこでもなさっているだろうと思いますが、記録を残す習慣を持つ一種の透明性と存在意義の確認は、他文化や他宗教の共同体と比較した場合に、歴然とします。特に、リサーチャーにとっては貴重です。
とにかく、士族系中心に浸透した明治期のプロテスタントキリスト教の継承という点で、女性男性問わず、ほとんどの方が非常にしっかりした生き方と知性の持ち主でいらっしゃることにも、感銘を受けました。特に、日曜学校に関しては、仏教の家であっても、親御さんが快く子どもを送り出し、子どもの方も、聖書の話を一生懸命に聴いて讃美歌を歌ったりして楽しく過ごした、などという記述には、私自身の幼稚園時代を彷彿とさせます。また、戦後の混乱期には、生きる指針を求めるべく、教会に大勢の人々が押し寄せたり、さまざまな硬派の話題で会を開いたりするなど、非常に真剣そのもののキリスト者の態度が見られたようです。その点、現在の私達は、情報が溢れかえって満たされ過ぎていて、ぼんやりしているのかもしれません。
ただ、教会を取り巻く現今は非常に厳しく、課題が多いともまとめられています。ご長寿で召された明治生まれ、大正生まれの方達が必死になってここまで築いてくださったものを、少しでもよりよく受け留め、自分なりに消化し、現在の文脈で生かしていかなければと思った次第です。