ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

とりとめもなく

おととい、アメリカから中古本が一冊届きました。
William A.Smalley, "Translation as Mission: Bible Translation in the Mondern Missionary Movement", Mercer University Press, 1991.
ざっと目を通しましたが、ちょうど10年前に真剣に悩んで一生懸命調べていた聖書翻訳団体の諸関係や神学的動向などもきちんと書かれてあり、懐かしく思い、同時に、素人ながらも私の疑問は決して的外れでもなかったんだなあ、と納得した次第です。この本は、問題点も率直に指摘されていますし、19世紀のやり方と今世紀がどのように違うのかなどとも、はっきりと記述されています。
こういう本の存在を知ることができるようになったのも、インターネットのおかげです。10年前は、インターネットの情報も今ほど充実しておらず、サイトで所在地を調べて、わざわざ国内および海外の諸団体に問い合わせの手紙を送っていました。お返事があったりなかったりすることも含めて、ほとんど賭のような感じでした。自己弁護のようですが、私が遠回りした背景には、こういう水面下での立ち位置調べなどの作業も含まれています。素人だったから抱けた問いでもあったかもしれません。通常は、自分の所属する系列の路線に沿って継承するのが自然でしょうから。
この本は、問題点の指摘ははっきりしていても、全体に穏健で淡々としているのが好ましい点です。また、イスラームについてもほんの少しだけ言及されています。欠陥としては、注の書き方が思いっきり省略された形になっていることです。ちょっと古い書き方のような...。

ところで、昨晩から今日の午前中にかけて、1920年代から30年前半期の宣教ジャーナルの複写を読んでいました。同志社大学附属図書館と神学部図書室の書庫から2005年頃出していただいた文献です。
文献集めは、民博でもそうですが、しばらく時間を置いた方がすっきりと読めるような感覚を持っています。『モスレム/ムスリム世界』のジャーナルから関連記事を大量に集めたことがありますが、目録を二度に分けて作ったものを最近整理してみたところ、かなりメモに重複があり、作業が二重に無駄になっていたことが判明しました。仕事のできる人は整理整頓をきちんとして能率が高いと聞きますが、確かに反省...。
話を元に戻しますと、その宣教ジャーナルにしても『モスレム/ムスリム世界』にしても、発見したのは、自己批判や問題点を正直に綴っているページがあったことでした。意外な気がしました。もっと宣伝めいた話が多いのでは、という先入観を持っていたのですが。もちろん、今から振り返れば、日本に関する記述などでも予想外れの部分がないわけでもありませんし、キリスト教宣教の前進を単純に喜んでいる記事も含まれています。けれども同時に、例えば、初期段階において既に「イスラームからキリスト教へ改宗した人々の問題点」をストレートに挙げているのです。彼らの孤独感、周囲から切り離された内的生活、失職、結婚できないことなど、深刻なものばかりです。欧米人教会では、国籍や民族が異なるからというので距離を置かれ、地元教会でも、元ムスリムだからと不信感を持たれたのだそうです。それならなぜ、ムスリム伝道を志したキリスト教宣教師達は、最後まで改宗者達の面倒を見なかったのかがとても不思議なのですけれども。
一度に資料集めをしようとやっきになると、疲れも焦りも相まって、こういう大事な側面を見落としてしまいがちです。一方で、安心もしました。これらの宣教ジャーナルが、問題点や失敗も含めて、その時その時で真剣で正直であろうとした姿勢がうかがえたからです。
さて、昨日書いた40代の女性の訃報についてですが、失われた機会の埋め合わせのつもりで、インターネット上に残されている何本かの講演内容、出版物などを部分的に読ませていただきました。私よりも年上の方で、理の勝った非常に饒舌な文章だなあという印象の割には、意識的か無意識的にか、何か肝心な点が表現されていないかのような気がしました。これは、元々の個性がなせる業なのか、それともイスラームとの出会いによるものなのかは、よくわかりません。勇気あるパイオニア的な態度および活動であったと思いますし、イスラーム改宗と結婚などの重要な人生選択について、それはそれとして尊重しますが、正直なところ、私にはよくわからない世界だという感想以外に、ふさわしい言葉が見つかりませんでした。マレーシアとの接触でも、これほど見ているものが異なるのかと、驚きでさえあります。異文化交流としてのお話ならば、興味深く読めますが、さて、では自分がその文化に入っていくかとなれば、かなり躊躇します。観察は確かなのに、そこで違和感を覚えずに中に入ってしまうというのには、やはりびっくりします。
私が問題としたいのは、だからどのように共生、共存すべきなのか、ということです。結局のところ、実際の生活では適度な距離を置いて、相互に不快にならないように心がけることでしょう。けれども、さまざまなイスラーム運動や政治動向を知ると、やはり(え!)と戸惑うことも確かです。理念を実現させようとさまざまな働きかけをするのは、それはそれでわからなくもない。でも、歴史的経緯や現実がこうなのに、(一体どうやって?)などと思ってしまいます。
その方の文章に、次のような意味のことが書かれてありました。「9.11以降、イスラームに関心を寄せる人が増えてきた。でも、それは情報として理解したいということであって、自分の生き方として取り入れるためのイスラームではない」「文化センターなどでは、仏教や聖書の講座があるが、同じ系列のイスラーム講座はない」。指摘は全くその通りだと思いますが、そこで(なぜなのだろう?)という考察に至らずに、「こんなにすばらしいイスラームなのに」となるところが、どうもついていけないのです。ムスリム世界の現状は「正しいイスラームを実践していない」ことが原因であり、「イスラームこそが解決だ」「カリフ制の再興こそが解決」という論理になると、(え?古代エジプト文明やペルシャ文化の繁栄は、イスラーム導入から変容してきたのでは?)(一体どこにカリフ制を置き、誰がカリフの地位に就くかで、また血みどろの紛争になりそうなのに...)などと、余計な心配をしてしまったり...。
でも、このように目を覚まして考える機会になったと考えれば、充分な意味があります。後は、どのようにシステマティックにまとめていけるかだろうと思います。