ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

論理性と公開性

昨晩は、夜中の3時過ぎまでかけて、たまってしまった紙類の整理をしていました。片づけものは、私の場合、思い立ったが吉日で、勢いである程度済ませた方が能率がよいようにも思います。もちろん、普段から整えられればよいのですが、基本路線はそうであっても、本やら勉強やら演奏会やらに夢中になっていると、つい、読む物や資料などは、時間切れで後回しになってしまうのです。また、こまごまとメモをとる癖があり、書き散らしたメモ用紙なども、箱にまとめて収まっているので、毎日まとめるよりは一気に清書した方が、繰り返しを省き、かえって落ち着くような気がします。
それにしても、先日のみどりさんの演奏を聴いていて改めて思ったのは、クラシック音楽の論理性と公開性です。音楽は感性に訴えるものではありますが、単なる気分に頼るのではなく、一定の法則に基づいていて、その上で解釈や個性が発揮されるのだと思います。従って、全体としての音楽史とは、その組み合わせ方の変遷経過とも解釈できるのではないでしょうか。
学部生の頃、音楽理論の資格試験を受けるために基本だけ勉強しましたが、法則を順序立てて理解すれば、先に確実に進めたことを覚えています。論理に一種の普遍性と規則性があり、内包するメッセージに真・善・美が含まれているので、内向きの閉ざされた空間に留まらず、外に向けても自信を持って発信できるのだろうと思います。
それと対照的なのが、邦楽です。今でこそ音符の楽譜があるでしょうが、昔、実家で見たお琴の譜面は漢数字で縦書きに表示してあり、それこそ一対一のあうんの呼吸で師から盗み取るように吸収しなければ、芸として身につかないように感じました。理屈じゃない、一を聞いて十を知れ、と。茶道も、写真付きのお手前の解説書が出た頃には、茶道を教えて生計を立てていた人達から、「職を失うから嫌だ」という反発があったと聞いたことがあります。
つまり日本では、邦楽にしろ茶道や華道などにしろ、洗練された一定の体系はあるものの、その伝授に関しては、擬似家族的な濃厚な人間関係が極めて重視され、その筋の人でなければ権威者となれないような、閉鎖性があったように感じられます。
一方、西洋発のものは、先のクラシック音楽にせよ、もちろん師弟関係は重要ですが、楽譜の読み方や楽器の奏法など、一定の訓練をきちんと積めば、プロとしてではなくとも、個人で楽しめるほどには到達できるという開かれた精神があるように思うのです。
これは、聖書なども同じ系譜にあるかと思います。聖書翻訳がなぜ現代においても盛んに続けられているのかといえば、翻訳に足るだけの内容を有しているからという古典の現代性が理由の筆頭に挙げられますが、それ以上に、論理性と公開性に基づいているのではないかと考えます。根拠のない秘儀というものを認めない、という姿勢です。もちろん、秘境の領域がないわけでもありませんが、全体的な基本姿勢としては、「広く皆にゆきわたるように」という思想が根底にあると思います。

・事実には客観性ないし普遍性があり、事実の研究を積み重ねての科学技術が全世界に広がりつつあります。それは国土、民族、国語を超える伝播力があります。そこに真理の力の一面を見ることができますし、その成果としての文化が全人類によって享受されることは、だれでも望むところです。しかし、事実すなわち真理とすることは危険です。(中略)ここに、個々の事実を上回る大きな事実といいましょうか、人間性の根本に触れる真理に目を向ける必要が起きます。これを明らかにすることによって、諸学の対象である事実も生かされてきます。
・事実には客観性・普遍性があり、真理は事実を基礎とするときに力を示し、真理愛は事実に対する誠実さに表れます。
(『前田護郎選集3 真理愛の拠点教文館 2008年 pp.33-34