ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前橋汀子さんのリサイタル(1)

前橋汀子さんのリサイタルに行ってきました。子ども時代からお名前は、音楽学校のポスターや音楽雑誌などで存じ上げていましたが、演奏会は、実はこれが初めて。デビュー50周年記念ということもあり、会場のシンフォニー・ホールはほぼ満員でした。

前半部は肩を出した濃紺ドレス。後半は半袖のレモン色ドレスで、ひだ裾を左手首につなげた優雅なスタイル、とお色直しも...。
お辞儀がとても丁寧で、ホールのそれぞれ四面に向かって、頭を深く下げられていました。
有名な小品ばかりで、最初は音の外れやかすれがちょっと目立ちましたが、後半以降は、曲を追うごとにますます本調子に。
演奏会の後半になればなるほどノリノリ。3000円とチケットがお安かった割には、途中で咳で邪魔する人々も、あまりいなかったと思います。つまり、聴く側も引き込まれて集中していたということです。
1943年生まれというお歳から考えても、アンコールも4曲とサービス精神旺盛で、大変エネルギッシュな演奏。しかし、抑制のきいた気品があり、思わず、ミルシュタインからいただいたというミュートの逸話が思い出されました。
ミュートをつけると、まるで別の楽器みたいなまろやかな音だったのです。あの音色は、ベテランならではのもの、と...。
最後には、かなりのお客さん達がスタンディング・オベーションをされていました。
休憩時、CD売り場では、「サイン会があるかどうかは、わかりません」と言われていました。「わからない、ということは、ないってことですね?」と尋ねていたお客さんがいましたが、それも「わかりません」。
楽屋口でサイン会が開かれました。通常、演奏家のサインは、ロビーでなのですが、まさか楽屋口とは...。こんなこと、初めてです。道路に並んで待つこと30分ほど。レモン色ドレスに黒ジャケットをはおったお姿で、他の人々と同様、写真まで自由に撮らせていただきました。
前橋汀子さんと言えば、子どもの頃からの私の勝手なイメージでは、海外生活の長い、ちょっと近寄りがたい感じのする、雲の上の「女流ヴァイオリニスト」。手持ちのレコードもCDもなく、これまでやや敬遠していたのですが、実際には、大変に茶目っ気のある気さくな方で、本当にお一人お一人とゆっくり応じてくださっていました。
(遠くからの印象とかなり違うことも多いんだわねぇ)というのが、今日の教訓。サイン会なんてと軽んじず、一期一会の精神で、せっかくのチャンスは生かさなければ、と改めて思います。
ところで、毎度、演奏会の後で、主人と口論になること。主人にとって、クラシックの演奏家は「いわば芸人」という位置づけで、そのように呼ぶことです。私は、小さい時からずっと、音楽といえばクラシックか童謡がほとんど。音楽学校に通う他、レコードを聴いたり、邦楽(お琴など)も含めた古典音楽の演奏会も年に何度か。それが自然なことでもあったので、舞台に立つ演奏家を「芸術家」と思っていても、「芸人」などと考えたこともなく、そういう語彙そのものが、口にする人の無知および古典音楽史に対する冒涜だと感じられるため、いつも喧嘩。(「芸人」と形容してしまうと、そもそも、音楽の種類も楽器も奏法も訓練の仕方も、何もかも全く違うことが無視されていますし、第一、「演奏者は見世物」という意識が観客にあるのではないかと思われます。西洋古典音楽の場合は、もともと教会音楽から始まったものですし、日本でも、明治以降の受容史も受容層も演奏家の社会階層も、明らかに異なります。例えば、N響の前身に相当する楽団員は、宮内庁雅楽奏者だったとか。)
プロとして舞台に立てるかどうかさえ、大変な難関だということは、小さい時から身にしみて感じていた私です。そして、一曲を人前で弾けるようになるのに、単なる練習のみならず、どれほどの素養と教養が必要か、も...
主人の言い分は、「それは都会の最近の話であって、日本全国共通ではない」。しかも、私がそこで反論すること自体、「自分を高見に置く姿勢の現れだ」というのです。一方、私に言わせれば、れっきとした資料に基づく事実を客観的に言及しているのであって、その程度の知識は、公立中学の音楽の授業でも、教科書に略述があり、習っているはずだ、と。明治以降、クラシック音楽が聴かれるようになったのであって、都会だの最近だの、一体、私が何歳だと思っているの?
なんでこんな次元の食い違う話題になったかと言えば、前橋汀子さんがサイン会を開かれた場所が、そもそも楽屋口という控えめな所だったことから。
私が小中学校の頃までは、舞台で花束を渡すことも見かけましたが、この頃では、そのようなケースがなくなってきているので、ご贔屓の演奏家には、色紙を持って楽屋口まで行って、サインしてもらったり、写真を一緒に撮ったり、少しお話したりするという打ち明け話は、時々ウェブ上で読んだことはあります。しかし、演奏会後のお疲れのところを、わざわざそこまでするのも、という遠慮が私にはあり、これまで、どなたに対してもしたことはありません。
しかし、どういう経緯でなのかわかりませんが、今日の前橋汀子さんは、楽屋口の前に座られて、そこでサインを。
それに「感心した」主人が、「やっぱり、あの世代の人は、認められるまでに、いろいろと“芸人”としての苦労をしているから、ああやって自分の立場をわきまえて、控えめにしているんだよ」と言ったのです。
え〜!前橋汀子さんを「芸人」だなんて!!なんと畏れ多いことを!
違います!音楽大学の教授でもいらっしゃるんですよ!
苦労といえば、留学のために、当時のことなので、飛行機ではなく船でソ連に渡ったこと、ピアニストだった妹さんを1999年頃、ご自宅の事故で亡くされたこと、それにまつわる噂話が雑誌に書き立てられていたこと、そして、今でこそ同業者が増えて何ら珍しくもないものの、「女流」という形容付き「ヴァイオリニスト」と呼ばれていたこと、などではないでしょうか。
第一線でずっと舞台に立ち続けることが、どれほど大変で貴重なことか。
つまり、「芸人」と口にした段階で、チケット代がいくらであっても、そもそも音楽のなんたるかがわかっていない、ということになるのです。だから、一緒に座っていても、素人なりの聞き分けができるかどうか以前の次元の問題。これに私は腹が立つのです。
いつも言っているのは、「知らないんだったら、あまり口にしない方がいいよ」。
すると、「専門家がいつも正しいってことか?じゃ、誰も何も言えないって事だな?」
「そんなこと言ってない。私は音楽の専門家ではない。ただ、事実を言っているだけ。私だって、理系のことは全くわからないから、何も言わない。音楽に関しては、小さい時から好きでなじんでいるだけに、結婚後の今、ピアノの練習も全くできない環境が不満なのに、その上、まるで話のかみ合わない人から、いろいろぶち壊すようなことを言われたくないだけ」
「普通の日本人は、そんなにクラシック音楽なんて聴かないよ」
「今時、自然に聴いている人だって多いはず。少なくとも、私の知る限り、何ら特別なことじゃない。自分の置かれた環境だけでモノを判断しないで」
「それは、そっちのこと。あの世代の人なら、“芸人”と見られていたと思うよ。最近だよ、ヴァイオリニストが立派なステータス持つようになったのは」
というように、とても演奏会直後の会話とは思えないような、奇妙な方向へ行ってしまいました。
好みや習慣の問題でもあるので、全くわからず、嫌ならば、無理に一緒に来なくてもいいんですよ。私、わかってもいない人に感動を押しつけようなんて思っていませんから。それより、普通、それだけのことなら、そんなに頑張らなくても、「あ、言い間違えた。芸術家だね」で済む話です。どうして、このように変な方向へ展開するのか。
「この曲、○○さんの演奏会でもやっていたよね?」と私が持ちかけても、「忘れた」という返事も多いのです。ということは、感動がなかったということの裏返しでは?それとも、「一緒に演奏会に行った」事実だけで満足しているってこと?
何というのか、10年以上前に、モーツァルトのCDをプレゼントしようとしたら、「そんな“ハイカラ”なもの、いらない」と言われてしまった義母を思い出させました。話が全く合わず、私にとっては、まるで曾祖母の世代と話しているような感じ。合わないならば、無理に合わせようとしなくてもいい、というのが私の方針なので、その後、それっきり....。
本当は、こういう一見些細なことのようでも、積もり積もって、それが生活水準の質を大きく左右するのではないか、と思うのです。言葉遣い一つとっても、これほどまでに私を立腹させているのですから。
もしもチケット代が高いと思われるならば、無理に演奏会場に足を運ばなくたって、ラジオでクラシック音楽が流れる時間があります。そこで、(音楽っていいものだな。この曲、好きだな)と思えば、そこから一歩踏み出すチャンス。そして、その時間の共有を同伴してくださるのが演奏家。そう考えれば、自然と敬意が高まってくるものではありませんか?
私が言っているのは、そういう基本的なことであって、何も強情に「最近」だの「都会」だの、理屈をつけなくてもいいじゃありません?
前橋汀子さんを知らなかったならば、「へぇ、そういうすごい経歴の人だったんだね」と言えば済むこと。押しつけでも何でもありません。自分が知らなかっただけなのですから。例えば、五嶋みどりさんや庄司紗矢香さんが、小さい頃からヴァイオリンの練習に夢中だったことなども、「変わっているよね、そんなにヴァイオリンばかりやっていたなんて」とも。
変わっている?そういう才能を持った人々を、早くから見抜いて、うまく育てていくことも大事な文化環境。そういう才能を持たない私達だって、少しでも耳を肥やして、よりよい聞き手になることだって、充分、重要な役割だと思いますけど。
他のことでは、全面的に私の協力者で、何でも私の意向を尊重してくれる主人なのですが、こういう点、何年一緒に暮らしていても、どうしてなんでしょうねぇ?

ついでに、「パイプス氏があれこれ批判されているって、もしかして、この話と似ているんじゃないか?自分の置かれた立場だけで、モノを言おうとするところ...」とまで言い出したので、私の激昂はますます高まりました。
「違うの!パイプス先生は、意見の多様性や自由を尊重する社会を維持したいから、それを妨げる可能性のあるイスラーム主義に対して、あのように主張しているの。このまま放っておいたらイスラエルの存続が危ないっていう証拠もあることがわかっているから、責任ある専門家として必死になっているの。それなのに、一部だけで反応して批判している人達が多いから、ネット上ではおかしな議論になっているわけ。私、ちょっと訳してみてわかったんだもん、そのこと。びっくりした。だから、私も反論しているの。それとこれとは、次元が全く違う」
...というように、話はますます、おかしな方向へ。
実はこれ、根拠なき、犬も食わない発展会話というわけでもありません。もう2ヶ月も前、パイプス先生から、「訳してもらえたら、わくわくするよね」と指定された過去の論考が一本あるのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)。それはずばり、「近代化にはベートーヴェンが必要」と題するもの。
日本人の西洋古典音楽およびジャズなどの柔軟かつ迅速な受容状況と、ムスリム社会全般の西洋音楽受容の‘停滞’とを比較した「論文」です。
既にもう訳してあり、何週間か寝かせているところです。ただし、「問題なし」とは必ずしも言えない内容ではあります。過去、西洋音楽を禁じたウラマーやムフティがいたことも事実なので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081227)、パイプス先生の「偏見」だとは決めつけられないものですが、よく知らない人にとっては(う〜ん)となるかもしれません。例えば、近頃、イェール大学から名誉博士号を授与された五嶋みどりさん(http://www.gotomidori.com/japan/cms/news.php?itemid=1297)のピアノ伴奏を務めた男性が、昨年はトルコ系アメリカ人でしたし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110622)、庄司紗矢香さんも、近々、日本大使館の取り次ぎか何かで、トルコでの演奏会が再び開催される予定とか。従って、部分的には、既に妥当性を失っている面もある論考です。
それに、上記の会話で腹立たしいのは、うちの主人も、その路線でいけば、「近代化」していない部類に入る恐れもあるからです。
前もって私の方から、パイプス先生にお伝えしてあります。「先生、“近代化”の意味って何でしょうねぇ。今の日本でも、私達、‘日本のここはまだ他国に遅れをとっている’などと話していますけど」と。
すると、「それは深い問いだね」という応答があった他は、メールで長々と議論する話題でもないという暗黙の了解からなのか、一応は自然消滅という形に。
まぁ、こういう次第なわけですよ。西洋化イコール近代化ではない、とはよく言われますが、一方で、自分の基準に留まったままで、西洋文化の優れた面を否定しているようでは、自らの前進が阻まれてしまう、という....。
だから、単身、海外に飛び立って吸収し、西洋社会でも通用する奏法を身につけられた上で、国際的に幅広く活躍もされ、現在では我々にも引き続き、実りを届けてくださっている前橋汀子氏を、間違っても「芸人」呼ばわりすること自体、許せないほど由々しきことなんです!
わかりました?