ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

少数派が少数派を差別する時

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202747378244610


「少数派が少数派を差別する時にどうすればいいのか」あるいは「少数派がある一定の空間で多数派になってそこで多数派の支配を行った時にどうするか」「不寛容に対する寛容はあり得るのか」といった様々な問題への問いかけといえましょう。


こういった問題を指摘すると「イスラモフォビアだ」とレッテルを貼られて総攻撃を受けてしまいかねないので、普段は覆い隠されている議論です。ただし明確に存在する対立であることは、まともにイギリスでフィールドワークをやればわかるはずなのですが、日本人の研究者はなぜか見つけてこないんですよね。要するになんとかして「イスラモフォビアだ」とレッテルを貼られる側に回らず貼る側に回るという立ち回りを先行させてきたのではないかな。


なお「こういう論評が報道されること自体がイスラモフォビアだ」とする研究が今後出ると思います。認識の枠組みは権力性を伴っていますから、なかなか変わらない。しかしやがて事実によって突き崩される。何世代かかかりますよ。だいたいほとんど手遅れになってから気づくのが人類の常です。


Satoshi Ikeuchi いや、ここでは少数派の過激派側が「正当な区別だ」と優越性を主張しているのが問題なんですが・・・よく考えましょう。

(部分引用終)

人気絶頂の池内氏のフェイスブックには、必ずといっていいほど、ずれたコメントを出す人がいる。入力して送信ボタンを押す前に、「よく考えましょう」。

続きがあった。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202747378244610


Satoshi Ikeuchi 根本的なところでは、イスラーム教の教義のテキストを世俗的な大学教員は誰一人読んでいない、読んだと称する人も、実際には世俗的な社会に合わせた説明をするあるタイプの解説書しか読んでいない、という問題があります。どういう意味で「過激」かをわかっていなければ対処はできません。わかっても対処できないのかもしれませんが。イスラーム教のテキストには非リベラルな部分があり、それに基づいて反リベラルな主張が明確に行われており、その解釈が少なくとも中東では多数派に認められているもので、それを信じている人が欧米社会にもいるということを真に受けられない、真に受けると非難されることを恐れないといけない、という知識人の社会の中の制約が、結局、原理主義者の一人勝ちをもたらしているのではないかと思います。イスラモフォビアを論じる学者で実際にテキストを読んだ人がまずいないのは驚くべきことですが、そのような言説の構造の中から生まれてくる議論なのだと思います。実際にどのような「イスラーム」が唱導されているかを踏まえて適切な対処を考えなければ、議論の前提が成り立たないので、今後も大学の中からの対処策は実質的には取れずに、公権力の介入とそれへの反対という形で議論が展開するのでしょう。この問題を論じにくいのは、ある宗教ではテキストに規制力がある(物理的な強制力も誇示していますが)ということを指摘すること自体が文化本質主義だ、ということになるからでしょう。知識人社会に決定的な盲点があれば、公権力がそこを埋めに来るのは当然と思いますが、このあたりは数百年後に振り返れば、「西欧では世俗主義者がのちの時代からは理解しがたいスコラ学の議論をしていた」とみなされるのではないかと思います。このあたりは近代の西欧の思想の権力性がリベラリズムに支えられていることへの無自覚が、かえって非リベラルな思想への対抗力を奪っている現象として興味深く見ています。私自身はリベラルな価値規範を重視していますが、そこに幾つかの盲点があることに、イスラーム主義の挑戦は気づかせてくれます。

(引用終)

はい、こういう議論が読みたいですね。
と思ったら、まだ続きが...。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202747378244610
Satoshi Ikeuchi 「ヘイトスピーチならともかく」とありますが、背教者の死刑の原則、征服した異教徒の奴隷化、ゲイの違法化、宗教間の厳密な序列と権力支配は、「過激派」と呼ばれる諸集団の大多数が「当然の真理」と主張しているものです。変な先入観なく、聞いてみればいいです。親切に丁寧に、隠さず答えてくれます。単純に、対処する側が知らないんですよ。知らない(知ることができない)理由は、世俗主義リベラリズムの普遍性に西欧の知的権力が依存しているからです。そのため、それ以外の普遍性を主張する勢力が存在して現に強いということを理解できなくなる。shooting the messengerをやって、中立な分析者にもイスラモフォビアのレッテルを貼ってしまって認識を避けているので、本当にわかっている研究者の多くは黙っています。あるいは難しい研究書の形で、なるべく狭いサークルの外にはわからないように書く。説明してもわかってもらえないと知っているからです。しかし世俗主義リベラリズムが普遍でやがて誰もが受け入れると無自覚に信じているからこそ、これだけ多くの、バックグラウンドを異にする移民を受け入れることができたことは事実なので、西欧の研究機関のスコラ哲学的頑迷さを私は貴いと思いますが、イスラーム主義には対処できないだろうな、と思います。なおイスラーム主義者側はこの世俗主義リベラリズム側の頑迷さを嫌い、軽蔑し、付け込んでいるのだと思います

(部分引用終)

はい、このような単刀直入な議論を待ち望んでいました。
パイプス先生が、1983年頃から、ずっと一人でおっしゃっていますけど....。