ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

旅の思い出を振り返ると...

2008年5月2日付「ユーリの部屋」で書いた一泊二日の旅について、先程、ようやく一通りのメモ整理が終わりました。家計簿に各種レシートを貼ることはずっと前に終わっていましたが、何時から何時まで、どこで何をしたかなどのメモは、興奮状態の帰宅直後よりも、しばらく時間を置いてからの方が、あっさり片付くように思います。
繰り返しになりますが、行路は、一日目が「我が家-京都-名古屋-恵那峡-中津川-南木曽木曽路ホテル宿泊・温泉)」で、二日目の帰路が「木曽路ホテル-中津川-美濃加茂-日本ライン下り-犬山(鵜沼)-岐阜経由で京都-我が家」でした。
名古屋で途中下車。一時、食品偽造がらみでニュースになった名古屋コーチン赤福もちなどが並べられてあるのを確認しつつ、赤味噌をたっぷりかけた鶏カツ定食で昼食。名古屋駅周辺は、京都に負けまいと、高層ビルが屹立していますが、便利になったことは確かです。名古屋出身者として、人々の物腰や言葉遣いがさすがに馴染みがあるために自然で懐かしく、(この10年間は「国内異文化生活」を送っていたんだなあ、多少は負担もかかっていたのかもしれない)と思ったりもしました。
それから、再びJRで恵那まで。途中のセントラルライナー追加料金については、「関西人なら絶対高いと文句を言って払わないのに、名古屋人だからおとなしく払っている」と主人が言いました。線路沿いに山々や田畑が飛ぶように走り去ってゆく風景は、見ているだけでも興味深いものです。
恵那駅に着くと、あまりの深閑とした静けさに驚きました。いわゆる生活音らしきものがほとんど聞こえず、実にしいいんとして、神経全体が休まるような気分でした。我が家は山のふもとにあり、比較的静かで落ち着いていると思っていたのですが、恵那まで来ると、普段の暮らしでは、子どもの騒ぐ声やお母さんのどなる声や何やらで、結構うるさかったのだと気づきました。家の中で話す声が駅まで届きそうなほど、全体が静かなのです。車通りもほとんどありませんでした。晴天だったので、その明るい静けさが、むしろ新鮮でした。
恵那峡ランドは、1990年代初頭をピークに、どんどん集客力が落ちたのだそうです。それは、帰ってから知ったのですが、確かに、当日、観覧車も止まったままでした。私が名古屋に住んでいた頃は、恵那峡といえば、テレビのコマーシャルにも出ていたほどだったのにと思うと、時代の変遷を改めて感じます。どうやら、「価値観の多様化」と「少子化」により、わざわざ恵那峡まで出向く人が減ったのだとのこと。どこでもさびれる理由は、同じような紋切型ですが、残念といえば残念。私は、初めてここに来ることができて、大満足でした。恵那峡の遊覧船は、30分間だけですが、変わった形の岩を眺め、青々とした緑とそよ風に触れているだけでも、心豊かな気分になれます。「ローレライ」の歌が蘇ってきたような感触でした。そういえば、先日、ドイツ語関連のご著書を送ってくださった学部時代の先生のご出身は、恵那だったのです。この先生の授業でも、ハイネの「ローレライ」の詩が紹介されたことを覚えています(参照:2008年4月4日付「ユーリの部屋」)。
中国から来たらしい観光団体客がいて、なかなか写真を撮らせてもらえませんでした。賑やかなのはいいとしても、ちょっとマナーが今一つですね。観光を通して近隣諸国の人々が自由に行き来し、交流が深まってゆくことはよいのですが、先日、鳥飼久美子氏が新聞紙上ではっきり述べていらしたように、「私達が長い間かかって作り上げた価値観を、よそから来て平気でひっかき回すような人々に対して、どう対応するか」という点が重要だと思われます。単にこちらが「異なる価値観に対して寛容になる」よう努めるのとは、違う次元の問題です。
日本初の大井ダムの説明を読み、北原白秋の碑の周辺を散策し、見事な藤棚を眺めてから、本数の極度に限られたバスに乗って恵那駅へ。そして、JRで中津川を経由して南木曽で下車。駅から電話すると、木曽路ホテルからシャトルバスが迎えに来てくださいました。
この辺りまで来たなら、馬籠や妻籠へと足を伸ばしそうなものですが、国文学専攻の学生時代に教授やクラスメートと一緒に来たことがあるので、今回は別のところにしたわけです。中山道は、いつでも変わらない緑深き山です。ただ、ここに生まれ育った若者の多くは、恐らくは進学を契機に外へ出て行ってしまうのだろうと想像しました。たまに休みに来るならば、絶好の場所なのですが、産業政策をもうひと工夫しなければ、と思った次第です。
ホテル木曽路は、連休中とはいえ、主人がカシャカシャとネット検索してくれたおかげで、非常に格安で泊まることができました。一日ずれていたら、ぐんと料金が上がっていたようです。また、仲介者によっては、かなりマージンに幅があるようで、この辺りの情報格差は大きいだろうと思いました。
このホテルは、落ち着いていて洗練されていて、接待も丁重で、温泉がすばらしく、お料理もおいしくて、お勧めです。唯一、和室なのに掛軸が中国風だったのが、いささかミスマッチで玉に瑕。温泉は、岩風呂と檜風呂の二種類があり、夜と朝とで、男女交替で両方楽しめるようになっていました。露天風呂も、文字通り、山々の大自然に囲まれた中でくつろぐことができ、えらそうに威張って生きているけれど、本当に人は自然の一部なんだなあ、と改めて懐に抱かれた気分でした。自然の恵みとはまさにこのこと。でも、岩風呂は、彫刻家が何か月もかけて彫って造ったものなのだそうです。ふうっ!
ホテル従業員には、中国人男性一人とフィリピン系のような女性一人が混じっていました。研修生として修業中なのか、今後はこのような職種はアジア系に移行していくのか、などといろいろ考えさせられます。でも、お二人とも非常に丁重な態度で、よく訓練されていて、感じ入りました。
翌朝は、温泉後に朝食ビュッフェを楽しみ、ホテル周囲の桜園を散策。八重桜が見事に満開でした。馬が3,4頭飼われていて、のんびりとしているのに、餌の人参をあてがわれるとムシャムシャ食べ始めるのは見ものです。動物園など、久しく行っていないものの、近くで動物を見ているだけで安らいでくる上、どことなく微笑ましくて、つい仲間意識を抱いてしまいます。黒豚も一匹、同じ柵の中でヒモにつながれていました。犬よりもおとなしく、しかしうろうろと目的なく動き回っていて、どう見ても毛並みがよいとも思えず、ムスリムユダヤ教徒が忌み嫌って食さない理由がわかったような気が一瞬しました。でも、愛嬌があることは確かです。いつかは食べられてしまうのでしょうね。こうして元気な姿を見ていると、人間ってなんて残酷なのだろうと思ってしまいます。その前にはウサギ小屋があり、ずいぶん狭苦しい籠のような仕切りの中で、忙しく干し草を食べたりあちこち移動を続けたりして、笑ってしまいます。哺乳瓶を逆さまにくくりつけた容器から、上向きに顔を向けて水を飲んでいる格好も、おもしろかったです。我が家のミッフィーやぴょんぴょんがいかに擬人化していることか。どちらが幸せかわかりませんけれども(参照:2008年1月5日付「ユーリの部屋」)。
そうこうするうちに、シャトルバスの発車時間が近づき、我々ともう一人の若い女性が乗り込みました。約30分で中津川駅へ到着。たった三人のために、ここまで遠距離を走ってくださるなんて、ホテル業も大変ですよね。だからこそ、上記で述べたように、産業開発の工夫創設が必要だと思ったのです。
中津川からは、主人の発案で、美濃加茂へ寄ってみようということになりました。途中で、ブラジル系らしい少年達三人が、サッカーボールを手になにやら喋っていました。土岐市の駅で下りて行きました。この辺りに住んでいるのでしょうか。
さて、美濃太田駅で下車。食事場所を探したのですが、なかなか見つからず。ここも町興ししないと、と思ってしまいました。結局、駅前のシティホテル内でビュッフェ。同じビュッフェでも、これほど味に違いがあるとは、新たなる発見でした。一言で言って、まずい!コーヒーまでおいしくなかったのです。駅前の観光案内所は、恵那でも中津川でもありましたが、その中では、美濃加茂が最もさびれていて、(もっと力入れてね)と思ってしまいました。パンフレットはいろいろ置いてあり、ボランティアらしきおばさん達が一生懸命説明してくれるのですが、なんだか気の毒な待遇でしたね。重要文化財に指定されている「旧太田脇本陣林家住宅」なる所が観光名所だと聞いて、歩いて行きました。ここでも、北原白秋の碑があったそうなのですが、川沿いに歩いてみても、どうやら見過ごしてしまったようです。坪内逍遥ゆかりの場所だそうで、松尾芭蕉の碑も並んでいると地図にはあったのですが、残念。
腹ごなしも兼ねて、ぶらぶら歩いてみたのですけれども、その重要文化財も、今一つぱっとせず。本当にもったいないです。ひっそりとした住宅街の一角といった感じで、実に静かそのものなのですが、人気がほとんどなかったのです。林家住宅は、一人の女性が応対係を務めていらしたのですが、お客さんは我々以外にもう一組だけでした。
3時に最後の出航だという日本ライン下りの船に間に合うかどうか、走りながら少し焦りつつ、乗り場に急ぎました。何とかギリギリ間に合い、ほっと安心。曇り空になっていたので、それも心配でしたが、歩いてきた川沿いを、今度は船で堂々川中を、逆に犬山の方へ戻るのです。これは、私の希望で実現したものでした。学生時代には、電車の広告で知っていても、なかなかこれだけのために、出向く理由も時間もお金もありませんでしたから。ようやく念願かなって、といったところです。
日本ラインと呼ばれる木曽川には4か所の早瀬があり、少しだけスリリング。浅瀬は1.5メートルで、深い所では20メートルもあるとのこと。船で荷物を運んでいた昔の苦労を想像してみました。所々、波が高いとはいえ、海を思えば大したことありません。しかし、恵那峡でも見かけたような奇岩を何倍か繰り返したような船旅でした。船頭さんが録音された木曾節を流しましたが、民謡を歌うのも、今時はやらない感覚になってしまいました。
一時間で犬山に到着。同行したご年配の旅行団は、どうやらバスで元の場所に帰るそうで、手を振ってきました。私達は、久しぶりに名鉄電車で鵜沼まで。ここから先のJR駅では、一時間に二本しかないという電車を待つはめになるとは。休日中だったからこそ待てたようなものでした。鵜沼駅も、若い人達が本を読んだりして、落ち着いて静かに電車を待っているのにはびっくりしました。騒音らしきものが何もなく、本当に神経が休まるのです。
ようやく来た電車に乗り込み、岐阜へ出て、そこからまた、乗ったり降りたりして、実にのんびりと京都まで帰って来ました。
我が家に辿り着いた時には、いかに我が町が便利で快適で発展した準都市風の町なのかということがよく認識できました(参照:2007年9月2日付「ユーリの部屋」)。市と名付けられてあっても、あんな状態でしたから、生活テンポや行動範囲が、相当違うだろうと思われます。今回の行程で立ち寄った場所はどこも、我が町よりよほど‘田舎’でした。リフレッシュにはよい所に違いありませんが、不便だろうとも思います。
途中で、関ヶ原にはどうして人が住まないのだろう、という話になり、東軍と西軍とで天下分け目の戦いをした場所としては銘記されても、実際住むとなったら、戦死者の埋まっている場所なんて嫌だろうし、という結論に落ち着きました。これは、正確には主人の考えです。結婚前に、伊吹山で待ち合わせて少し遊んだことがあり、その時にも関ヶ原駅を通ったことを思い出しました。

旅の思い出を振り返ると、何でもないようですが、日常を打ち破るような発想や視点が与えられる幸いを思います。
それにしても、地方の疲弊がここまでだったとは...。早いうちに手を打たないと、本当にどうかなってしまいそうですね。我が町の方が、規模も施設も大したことはないですけれども、いにしえの故事を記念するような場所に多少は恵まれています。お世話になったのに自分達だけ楽しんでしまい、申し訳なく思います。とにかく、地方格差の実態をまざまざと見せつけられたような旅でした。