ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

新聞記事から思い出したこと

今朝の朝日新聞には、シカゴ大学のノーマ・フィールド教授の「天皇制」と「文学」を軸とする短い記事が掲載されていました。源氏物語の読み方、例えば、経済的基盤と恋と権力が重なる構図、目の前にないものに対する根源的欲求つまりあこがれが人間にとって意味するもの、などは、学部生時代から無意識のうちに思っていたことを改めて言語化されたように感じました。当たり前過ぎて言語化するのもなあ、と遠慮していたのに、記事になると、違ったように見えるのが、自分の弱さでもあります。
最近の経済格差問題が引き起こした小林多喜二ブーム。その読み方も、北海道を旅し、書簡を読み、人間性と地域性が示唆するものという視座を出されていました。
やはり、ジャーナリズムの宣伝的な取り上げ方に左右されるのではなく、このような独自の読み方をきちんと提示できることが大事なんでしょうね。記事中で一番うれしかったのは、「カルチュラル・スタディーズやポスト・モダンの研究風潮には、ずっと違和感を抱いてきました」という一文です。
先日も「ポストモダン的」という言葉が好きではない、と書きましたが(参照:2009年3月21日付「ユーリの部屋」)、私にとっては、90年代からよく論文タイトルでも目にする言葉であったものの、実際、定義もわからず、ポストモダンなるものの次世代は、いったいどのように表現するのか、などと考えているうちに、(や〜めた、そんなの)と投げ出していました。
もう一つの理由は、何年も前に、一度もこれら二分野を専門としたことがない私に対して、この用語を使って、メールで私の態度を叱り飛ばしてきた女性研究者がいたことを思い出したからです。「カルチュラル・スタディーズやポスト・モダンの研究では、そんな思いをするのは当たり前です!」やはり女性は、社会性が浅いというのか、女の浅知恵とはよくいったもの、と感じますねぇ。自分の立場からだけで相手を裁断してしまう狭い態度、あるいは思い上がり、かな?
かく言う私も、たぶん、無意識的に同類なのでしょう。
数日前、ミラン・クンデラの昔のインタビュー(確か、チェコ語で語り、夫人がフランス語に通訳したものの英語訳)を読んでいたら、「この頃、人々は判断的になっている。他者を理解しようとしない」ということばが出てきて、本当にそうだなあと思いました。異なる立場や違和感を持った現象に対して、なぜそうなるのだろう、どういう背景があるのだろう、と考えようと努力するのではなく、好き嫌い、良し悪し、わかりやすいか否か、などといった判断的価値で相手を遮断してしまうことは、とみに顕著だと思います。
これについては、一人一人が、本当に気をつけなければなりません。いわば、全体主義につながる恐ろしい風潮だからです。
私など、しょっちゅう、「バッカじゃない?まだそんなレベルなの?」と周囲から言われ続けてきた環境で育ったこともあり、今でも恐怖心のようなものが根底から抜け切れません。ブログでも、(まだそんな音楽聴いているの?そういう本しか読めないの?レベル低いねえ)と思われているのではないか、という不安に打ち勝ちながら、恥をさらすつもりで書いている部分があります。しかし、このような病理的心理を植え付けたのは一体誰なのか?なぜ、人が全霊込めて作曲し演奏した音楽、命がけで書いて出版した本を、(レベルが低い)と即断するのか?(ああ、この人はこういう音楽や本が好きなんだね)と、どうして思いやれないのか?
もっとも、物事には確かに質や基準というものがあり、だからといって、何でもあるがままに受け止めてほしい、などと甘ったれたことを意味しているのではありません。明らかに、一定水準やルールをクリアしていることは、言うまでもなく前提条件です。私が腹立たしく思っているのは、論文タイトルや学会の題目で、「カルチュラル・スタディーズ」「ポストモダン」などとある場合に、(それって一体何なのだろう?)とぼんやり考えている私を「乗り遅れ」だと嘲笑し、真に理解しているかどうかは別として、いかにも理解したつもりになって、その用語を軽々しく(と少なくとも私には思えた)援用して、うまく時流に乗っかってやろうとする浅ましい態度のことです。