ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

クリスチャンにとってのイスラーム

故ワット教授の『ムスリム・クリスチャン遭遇:理解と誤解』(1991年)の中から、私にとって重要だと感じたポイントをまとめてみたいと思います。「それはイスラームに対する偏見だ」とか「イスラームがわかっていない」などと一方的に責められがちな、あるいは往々にしてその存在や苦境が無視されがちなキリスト教徒に対して、故ワット教授は次のように諭されています。

イスラーム発生当初のキリスト教との出会いにおいては、その当時のキリスト教の弱さに気づくことが必要である。(p.7)
・メッカでのキリスト教に関する不充分で間違いの多い考えは、驚くことでもない。(p.7)
・今日のクリスチャン達が真剣に考えるべきは、キリスト教の故郷である土地が事実上イスラームに置き換えられてしまった事実についてである。また、問うべきは、神がこのことをもたらしたのは、クリスチャンの失敗のためであるかどうかについてである。(p.8)
・アラブ部族の歴史は口承に基づくものであり、もっぱら、一人かそれ以上の傑出した指導者を通して、どのように部族が力で増大したかが一世代か二世代の間続くというものである。そのため、ユダヤ共同体のようなコミュニティには、千年以上も続く三十世代か四十世代の歴史があるということが理解できない。(p.9)
・これが初期ムスリムによる預言者性の概念であり預言者の歴史であるので、ムスリムにとってユダヤ教キリスト教の歴史についての充分な考えを持つことが不可能だった。クルアーンにどれほど語られていないかを認識することも重要である。(p.12)
クルアーンが、多数派のクリスチャンの信仰の中心事項を否定しているように見える二点がある。それは、イエスの十字架上での死の否定であり、イエスの神性の拒否である。(p.21)
・それゆえ、ムスリムキリスト教認識は、すべてのキリスト教信仰の中心部を否定することを含んでいる。(p.22)
現代人にとって、クルアーンキリスト教認識が深刻なほど不充分であり、幾ばくか間違いもあることは明らかである。しかしながら、重要なのは、今日のクリスチャンがこのことをムハンマドが神の霊感を受けたことを否定する理由として受け取ってはならないということである。むしろ、預言者性の性質について再考することが必要である。(p.24)
・特に重要なのは、今日のクリスチャンがクルアーンが不充分なキリスト教認識をしているからといって、クルアーンの教えの偉大な肯定的な価値に盲目になることを許してはならないということである。それは、実は、アブラハムの宗教伝統の中心的な真実なのである。(p.28)
「その実で知られる」というのがキリスト教の原則であるイスラームは、確かに何百万人もの人によりよい生活をもたらしたのである。(p.29)
・大半のムスリムが、宗教は安定したもので不変であるべきだと考えるのに対して、多くのクリスチャン達は、宗教とは、人間社会の変わりつつある必要性に応じるべく成長し発展する生けるものだと見る。そして、変わらないものがあるということがキリスト教の中心なのである。(p.29) 
「もしそれらの本がクルアーンに適合するものならば、不必要であるし、破壊されるのがよいだろう。もしそれらの本がクルアーンに矛盾するならば、本は危険であるし、確実に破壊されなければならない」。この話は、もちろん、ムスリム・ソースによるものである。ギボンは、その正確さをいささか疑わしく思っていた。現代の歴史家は、図書館はムスリム征服以前にアレクサンドリアから移動されてしまったのだろうと考えている。しかし、その事実性が拒否されたとしても、その話は何世紀にもわたってムスリム学者の認識を決定したある態度を表明している。そして、今でもそうなのである。ムハンマドは最後の預言者なので、イスラームは最終の宗教だとムスリムは信じている。そして、クルアーンハディースでは、イスラームが本質的に、現在から世の終わりまで全人類によって必要とされるすべての宗教的倫理的真実を有していると信じている。それゆえ、宗教的倫理的領域においては、イスラームは他の思考体系から学ぶものは何もないのである。(p.41)
・普通の人間精神が真実と誤りを見分けることに信頼を置いていないようだ。この一般的な態度の結果、ウラマーイスラムの公的な宗教学者達が常に、普通のムスリムが誤ったあるいは異端的な教義の知識を得ることから遠ざけようとするのだ。(p.42)
・この態度の根源には、多くの西洋人とは異なる知識の概念がある。伝統的なムスリムにとっては、知識は本質的に宗教的であり道徳的知識である。つまり、「生きるための知識」である。実際、すべてがクルアーンハディースに含まれているのだ。一方、西洋人にとっては、知識は主に「権力のための知識」である。つまり、自然界や人間個人や共同体についての知識である。知識があれば物事や人々をコントロールするのがより容易になるからだ。恐らく、ムスリムが研究することから遠ざかる聖書の歪曲性という信仰というよりも、ムスリムの自己充足性の仮定なのだろう。それゆえ、西洋人にとって理解が困難なのは、誤った教えにさらされることへのムスリムの恐れである。しかし、この恐れは、サルマン・ラシュディの本を禁止し燃やせというキャンペーンの緊急性を説明してくれる。(p.42)

(以上)

長くなったので、いったんこの辺で止めます。この本ともっと早く出会っていたら、マレーシアで発生している問題にも、遠慮することなくもっと自信をもって発表できたのに、これまで私が置かれた/選択した環境から考えると、やはり日本/私は後進だなあとつくづく落胆します。

[後記]強調のためのあずき色を追加いたしました。