小川国夫氏の『私の聖書』
本来の予定では、「私はこれでイスラームをやめました」という人々の背景理由を探ろうとしたムスリム研究者による論文の紹介か、先月下旬に開催されたチューリヒ大学神学部教授による講演会とワークショップの概略を書こうと思っていました。
でも、鼻風邪が治っていないためにワード上でのまとめが終わらなかったことと、今日の朝日新聞朝刊に追悼記事「吸入器傍らに語った聖書・人間 作家・小川国夫さんを悼む」(司修氏)が大きく掲載されていたことを契機に、急遽、2008年4月9日付「ユーリの部屋」の続きとして、小川国夫氏に関する覚書に変更することにしました。
追悼記事には、こうあります。「小川さんのいろんな小説も、聖書から生まれているな、と思ったものだ。」「…『聖書からの発想なのです。もちろん聖書はもっともっと単純な書きぶりですが、話の原型になるようなことはすべて包含しています』と述べている。」
そこで、小川国夫(著)『私の聖書』岩波書店(1994年)について、2001年2月26日に作った自分の読書メモから、復習がてら簡単にまとめてみようと思いついた次第です。
ご紹介の理由をもう少し手短に述べますと、2年ほど前、ある国立大学の名誉教授から、次のようにメールで指摘されたことを想起したからでもあります。「ユーリさんが聖書やキリスト教方面に造詣が深いことはよくわかります。ただ、ユーリさんに試みてほしいのは、いったんそこから離れて、自分を相対化することです。」
おっしゃることはわかると思ったのですが、一方で、瞬間的に感じたのは、(これは、まったく誤解されているのではないか。あるいは、キリスト教や聖書について、失礼ながらあまり真剣にお考えになったことがないのではないか。少なくとも、プロテスタントの聖書学やキリスト教芸術がどのような遍歴を辿ってきたのかを、もしかしたら、ご存じないのではないか)ということでした。あまりよい例ではありませんが、皮膚呼吸も含めて、生きている限り、確かに呼吸し続けているのにもかかわらず、「いったん息を止めて考えてみてはどうですか」と言われているようなものだと感じたのです。
だからといって、決して先生を責めているのではなく、日本社会のインテリの中には、そういうタイプが珍しくないという一例を反映させたいだけです。そして、その傾向を、人類の歴史的展開を知的に理解する上でも、大変遺憾なことと思っています。
では早速、故小川国夫(洗礼名:アウグスチノ)氏が、どのように聖書を味わい、理解し、そこから力の源泉をくみ取っていらしたかをご紹介しましょう。ただし、私的読書ノートからの抜粋ですので、表記や言葉遣いなどは、正確な引用ではないことと、あくまで私の視点でまとめたメモであることを、予めご了承いただければと思います。
・中世ヨーロッパには、エルサレム巡礼とローマ巡礼の二つの流れがあった。(p.44)
・信仰とはイメージの実在を信じること(p.45)
・ステンドグラスは、読み書きのできない素朴な人々に、信じていることの、信ずべきことの内容をわかりやすく示したもの。感覚の開拓(p.51)
・宗教がおとろえるにつれて、この世から香りも消えて行く。(p.55)
・結婚は、人と人とを新しい関係に入らせるから祝福すべきだ(p.67)
・貧しくても文盲であっても低い精神状態に低迷していたとはいえず。宗教的思想的であった。(p.70)
・極限的な苦難の歴史が伝説となり、かそけき歌声となってイスラエル人の中に生き続けている。イスラエル人の持っている暗さが強さに。暗い根っこを持っているから素晴らしい学者とか素晴らしい芸術家を輩出できる。(p.119)
・埴谷雄高氏「聖書には人間のことが全部書いてあるよ」(p.120)
・いわば実存の奥に宗教はある。(p.144)
・未来を知ろうとする人は、原体験に目を注いだらいかがか(p.146)
・(例えば聖書によって)人間が陥らざるを得ない悲惨を先取りすること。預言を読んでおくこと。自由とか安全とか福祉とか権利とかきれいな言葉を並べ、目標として追求するだけではなくて、預言をあらかじめ読んでおいて、普通のおもわくを超えた悲惨な事態に備えるのです。(p.149)
・宗教は、秩序立ったひとつの追求によって真相に到達できるというのではなくて、呼び求める強さが最も肝腎だ(p.151)
・とことんまで否定することによって肯定の声をみちびき出す歌い方は、ユダとイスラエルの預言者のもの(p.156)
・人間が神になるという命題は、人間の完全な自由を意味している→日本でも戦後の文学者にはひとつの問題があり、それは無神論への転向(p.174)
・ロシアにはキリスト教伝統がある。ドストエフスキーは母親から聖書を読んでもらい、ロシア語を覚えた。体に聖書が深く染み込む。(p.179)
・創造的エネルギーというものは、画一化した社会で画一化した考え方をしていると衰えていって、一方で人々は創造性の虐待や圧殺に手を貸すような結果になってしまうのではないか。及びもつかないところから物事を考えていく創造性と無視されても持ちこたえて行くエネルギー(p.196)
・ゴッホはオランダ・カルヴィニズムの牧師の家柄。聖書知識豊かなゴッホ。一時期キリスト教の伝道に身をゆだねた。(p.200)
・中世ヨーロッパにキリスト教がしっかりと根を下ろしたのは終末論の影響が深刻であったから。終末論のように説明不可能な神秘的な部分がヨーロッパを改宗させる原動力(p.252)
・不安の中の充実感。逃げようという気持ちがなかった。心に遊びがあった。どの時期よりも自分を確実に把握していた。(p.271)
・福音書は記述があまりにも不備。わからない個所が明らかになることは少なく、かえって更に大きな闇をかかえこんでしまう。吉本隆明との対談「福音書は読む人がになっている問題に引きつけられて理解される傾きがある」(p.276)
・私は聖書を肯定している(p.282)
・再臨派のように逐語的に聖書を受け取るべきかどうか、私は疑問に思う(p.289)
・キリストの言葉はすべて人間の現実に根ざしている。どうしようもない欲望をまず認め、その実感を導入部としてその後に哲理をみちびき出す。(p.294)
・聖書が倫理とか哲学の側面にかたよった読まれ方をしている弊を感じる。広く民衆の生活を思いやった現実認識こそ、いわばキリストの思想の生い立った基盤であり、ひいては聖書の本質をなすものだと私は考える。(p.297)
・聖書はすべての人間性に深くかかわり、すべての想像に深くかかわり、すべての思索に深くかかわる(p.304)
・そして私は、ものを書く以上、この体験を放置すべきではないと考え、ここを源泉としようと考えた次第だ。旧約聖書には、書き留められなかったこともまた多かったに違いない。ふんだんに血のにおいのする事件、人間の言葉に入り混る神の言葉、指導理念を秘めた引き緊った口調文体(p.305)
・5冊の日本語の≪新約聖書≫を読んできた。強いて難癖をつけない限り、細部にいたるまで内容は同じ。プロテスタントもカトリックも同じことを信じているのだろう。(p.307)
・始源へさかのぼろうとする学問的活動がある限り、聖書は翻訳し直されるだろう。翻訳への情熱は、学問的な発見、比較、校訂への情熱と抱き合ったもの。古きを温ねつつ同時に新しきを知る。(p.309)
・聖書はやはりむつかしい書物。過去の名訳は名訳として残る。(p.310)
・新約聖書はもともと翻訳としてあった。信徒にとって拠るべき原典は存在しない。(p.312)
・回教の原典一元主義。キリスト教世界の国際的言語統一の例は、ギリシア正教のギリシア語やカトリックのラテン語→歴史的事実。聖書はいつもあらゆる国のあらゆる時代の言葉となって存在すべき書物。聖書の運命。(p.313)
・1978年9月に日本聖書協会理事から、改訳日本語の検討の依頼。文語訳に郷愁を感じている組(p.314)
・自分を捉えた感動をこそ、現代人の言葉で提供したいという願いが心底にあるべきだ(p.319)
・私の郷里に赴任してきたフランス人司祭。睡眠時間もへらしてそのことに心を砕いている彼らを見るにつけ、私は感銘を受け、彼らを動かしている聖書とはどういう本なのだろうと改めて考えされられた。(p.321)
・聖書の実証的理解を望んでいる。(p.322)
・いうまでもなく新約聖書の世界は清朗ではない。率直に聖書は不可解な本だという人は少ない。だからこそ魅力に満ちている。(p.323)
・聖書世界に分け入れば、何か書くことができるだろう。聖書への文学的関与。原点は文語訳聖書。(p.326)
以上です。レイアウトは、下書きからアップした段階で、行間が詰まってしまいますので、読みにくいことをお許しください。
このメモをとった当時は、9.11同時多発テロ事件の数か月前で、自分の研究テーマをどのように進めていこうかと必死で模索中でもありましたので、こうしておさらいの機会が与えられて感謝しております。また、小川国夫氏は、国文科のご専攻であり、在学中にフランス留学もされました。そのようなご経歴にも、改めて感銘を受けます。