共に生きるための思想(1)
昨日の末尾に書いたことの続きです。さすがはワット先生、『今日のためのキリスト教信仰』(2002年)では、最後に「ムスリム達への一言」という4ページ弱が付記されています。実は全文を読み終わっていないのですが、ムスリムへの深い愛情と含蓄に富む落ち着いた思想を、是非ともここでご紹介したく思います。ただし、要点のみでご容赦願います。
・同情的なクリスチャンに見られているように、ムスリムの信仰にはどれほどの真実があるかを示唆する必要がある。(p.101)
・ムハンマドは真に神から啓示を受け取った。そして、ユダヤ教徒や、より少ないキリスト教徒との幾ばくかの接触によって、これら二つの宗教についての漠然とした考えを形成したのだ。(p.101)
・クリスチャン達はムハンマドを、彼の信仰において正しいと見なし、それゆえに、クルアーンを真に神からの啓示の集成だと受け入れるべきだ。(p.101)
・しかしながら、次に強調が必要なのは、人間への神的啓示の過程は単純さからは程遠いものだということだ。(p.101)
・旧約聖書は、後の世代のために、補われ時には修正される必要があるという限られた啓示である。旧約の宗教は、だから成長し発展中の宗教なのだ。(p.102)
・イスラームは、世界史への顕著な貢献として見られるべきである。しかし、問われなければならない質問がある。クルアーンは、神についての十全かつ最終の真実を与えているのか、それとも、クルアーン的真実は、追加されるものに開かれているのか。キリスト教徒は後者の見解をとる。つまり、補われ、時には修正もされる必要があるということだ。(p.102)
・ムハンマドや最初期のムスリム達が出合ったユダヤ教徒やキリスト教徒の見解をクルアーンは反映している。そして、これらの人々は充分に正しい知識を持っていたとは思えないのだ。(p.102)
・イエスの十字架上の死は、全歴史の中で最も確かな事実の一つだが、クルアーン4:157では、それを否定しているようだ。「ユダヤ人達はイエスを殺さなかった。十字架にもつけなかった。だがそのように見えさせたのだ。」というのが一つ可能な訳であろう。そこから言えるのは、十字架刑は、ユダヤ人の勝利ではないということだ。これはキリスト教徒が受け入れる点である。ムスリム学者の中には、ここに困難さを見て、ひとつの解釈を出そうと試みた人もいる。「イエスの殺害の否定は、永遠に勝利的である神の言葉を征服し破壊しようとする人間の権力の否定である」と。(p.103)
・ムスリム達はまた、ほとんどのイスラム共同体は今やより文明化しているのだから、クルアーンの幾つかの箇所が時代遅れになってはいないかどうか考えるべきだ。(p.103)
・それゆえ、私がムスリム達にお願いしたいのは、キリスト教信仰のさまざまな表現を注意深く見てほしいということだ。そして、考えてほしい。イスラーム信仰に付け加えられるものがないかどうかを。特にイエス自身が達成したことの中に何かないかどうかを。(p.104)
(引用終)
結局のところ、イスラームに関する碩学だからこそ、ここまで言い切れるという面も大きいのではないかと思います。まずは、キリスト教徒達に、ムスリム信仰およびムハンマドを正当なものと見なすよう促しておいてから、現代のムスリム達に、クルアーン解釈に対する再考を呼びかけ、現実のキリスト教信仰のあるがままを観察してほしいと願っているのです。共に生きるための深い思想が、ここには表れていると思います。
本書が2002年に発行されたことを思えば、まだ道は遠いと言うべきでしょうか。