ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

聖金曜日の思い出 マレーシア編

こうしてブログを書き始めて、昔の愚痴やら反省やら悔恨やらが頻出することに内心忸怩たるものがありますが、同時に、いつの間にか封印してしまっていた感情や思い出を表現することで、現状と将来に意欲と希望がわいてきます。
私の二十代前半までは、ちょうど日本も「一億総中流時代」で「バブル期」めがけて一直線でしたから、日本のキリスト教会も、マイノリティとはいえ、それなりの自信や誇りがあったようにも思われるのです。いざとなれば、アメリカからの援助も期待できたでしょうし。しかし、今のように政治も経済も綻びが目立ち、「格差社会」の弊害が叫ばれ、アメリカのキリスト教団体からも「日本は充分豊かになったのだから、もう自力でやりなさい」と金銭援助が終結されてしまうと、人材育成の上でもさすがに安穏としてはいられなくなります。そういう時期だからこそ、現状を憂えつつ、私のような一個人の立場から、経験に基づく苦情を公開することも、あるいはどこかで軌道修正の一助になればと思うのです。もしも、日本のキリスト教人口が、現在の韓国や中国でのように、増大し活発化しているならば、私の不平は全く意味を持たないでしょう。悪いのは私だからです。
ただ、昨日も「ユーリの部屋」の後半部を書きながら改めて思ったのは、祖父、父、主人、主人の伯父など近親者の男性と、教会や大学院など社会で出会った男性とでは、同じ日本人男性でも、物の考え方の点で、かなりタイプが違っていたんだなあということです。普通なら、前者より後者の方が、より開かれた高度な考えの持ち主だという先入観がありそうなものです。しかし、私の場合は逆だということが判明しました。(数日前に、主人が言いました。「ユーリの話を聞いていると、宗教と文系大学の関係者には、常識はずれの変な人が多いみたいだね」と。)
そして、これも運不運になるのでしょうが、その意味で、私は非常に幸運だったのだろうと思われます。うちの主人の母が、結婚当初、「ユーリさんは運が強い。恵まれたいい家の出なんでしょう?」と繰り返し言ってきたのも、ここに至って、ようやく意味がわかってきました。ちょっとずれているというのか、気づくのが遅すぎますね、私。

そういえば、私の父とほぼ同世代の別のキリスト教会牧師の事例ですが、しばしば私に、「あなたは一人っ子か末っ子で、相当甘やかされて育っているんだろう。我が強いから」と言ってきたことがあります。「いえ、私は三人きょうだいの長女です」と事実を言っても、信じてもらえなかったようなのです。その方は東大出身なのですが、そういう誤った人間観察をする人が、「信仰」の名のもとに人を指導したり進路助言をしたりするというのは、いささか危険ではないかと思います。いかがなんでしょう?

会合などに出て行くと、この頃は、中高年男性が圧倒的多数を占めるものが増えてきたのですが、歳のために面の皮が厚くなったのか、自分が紅一点に近くても、私はほとんど気にならないのです。社会的地位も財力も何も持たないのに平気でいられるというのは、とりもなおさず、家族や親族の男性が、私に対して「女だてらに」「女は引っ込んでいろ」などと、一言も言ったことがなかったからだろうと思います。言葉使いやお行儀や服装などについては、小さい頃からうるさく言われてきましたが、勉強や学校選択などの上では、一度も強制されたことも抑えつけられたこともなかったのです。子どもがいたら、私も多分、同じように躾けていただろうと思うので、これは大事なことだろうと思います。主人も、その点で似たような考えを持っていたことも、幸いでした。唯一の問題は、夫婦共々、実践の機会に恵まれなかったことです。

さて、前置きが長くなりましたが、今日は聖金曜日ということですから、15年前のマレーシアのイポー市での思い出を少し書いてみましょう。
今はマラヤ大学の専任教官として活躍中のエスター先生のことです。エスター先生に誘われて、この‘Good Friday’に、イポー市にある、英語とタミル語の両方を用いるメソディスト教会の礼拝に出席させていただいたのです。当時の古い日記を探せば、英語とタミル語で表記された週報も多分出てくるでしょう。確か、説教は英語で、讃美歌はタミル語と英語の両方だったかと思います。英語の讃美歌は知っていた曲でしたが、タミル語は全くメロディも異なり、タミル舞踊のように明るい色彩の曲だったように記憶しています。

エスター」とは、もちろん「エステル記」からとったクリスチャン名で、非常に聡明で快活なインド系女性でした。「でした」と過去形で書いているのは、その後、あることがきっかけで連絡が滞ってしまったからです。でも、今でも私はエスター先生のことを尊敬し、懐かしく思っています。問題は、マレーシアのような多民族多宗教社会では、日本のような均質性の高い社会で育った者にとって、ちょっとしたすれ違いや勘違いが、友情の亀裂を生みやすいということなのです。双方に、人生上の疲れやストレスもあったのかもしれません。当時独身だったエスター先生は、どこかで私に(あなたはお気楽でいいわね)という思いがあったのかもしれません。また、私も外国人として、エスター先生のような親切なマレーシア人を、どこかで当てにし過ぎていたのかもしれません。

ともかく、15年前はそうではありませんでした。そもそもエスター先生と知り合いになったきっかけは、マラヤ大学での私の同僚の一人Tさんが、それ以前に青年海外協力隊で教えていたマレー系選抜校で、エスター先生と親しかったからなのです。つまり、エスター先生はインド系出身の女性でありながらも、マレー系選抜校で生物や化学などを教えることができたほど、優秀だったということです。マレー系選抜校は、当時、マレーシア全国に幾つか設置されていて、貴族系や上層マレー人の子弟あるいは相当優秀なマレー農村の少年だけが行ける学校でした。その頃のマラヤ大学も、優遇政策の適応されるマレー人を別とすれば、華人やインド系にとって、まだ一部のエリートだけが進学できる大学として威信が残っていたのですが、今では学校制度が大幅に変わったこともあり、水準は極度に低下しました。

当時の私は、若くて世間知らずで、先進国の日本という驕りと、上述の「一億総中流意識」の喧伝のせいもあり、本当にエスター先生の実力を充分には把握していなかったように思うのですけれども、今から考えても、相当な方だったのに、申し訳ないことをしたと反省させられます。リサーチを進めていくと、地元の事情がだんだん身近に感じられてくることから、その頃は、何も知らずに気軽にホイホイと参加させていただいていたことも、今になると俄然、身の引き締まる思いがします。これは、若さの特権でもあり、無知と傲慢さの表れでもあるでしょう。

エスター先生は、マラヤ大学の理系学部を卒業し、上記の二つのマレー系選抜校で長年教えるかたわら、ペナンの大学で修士号と博士号を取得して、マラヤ大学教育学部に移られたのです。イポー市でその日にエスター先生とお会いできたのは、エスター先生が勤務されていたマレー系選抜学校で日本語を第二外国語として学習している生徒達に、Tさんと私が教えていたマラヤ大学日本留学コースを選択するよう宣伝するプログラムの仕事があったためです。Tさんと私は、マラヤ大学のマレー人のZ博士が運転する車に乗って、首都からイポー市まで出かけたのでした。

Tさんによれば、思春期で難しい年頃のマレー人少年達でも、「たばこを隠れて吸ったり悪いことをしても、エスター先生だけには本当のことを話せた。困った時には何でも相談できた」と言うほど、信頼されていたそうです。これは、今の私が想像するだけでも、相当のことだろうと思います。マレー人は憲法上、全員ムスリムです。しかも、あの土地の主であるという政治的宗教的主張を持っています。インド系は、その多くが貧しい下層階級だとみなされることもある中で(後注1:実は、私が住んでいたクアラルンプール市内では、ガードマンを雇うような大きな邸宅に住んでいたインド系もよく見かけました。私の友人のいとこだという女性も、ボルボを運転していましたが、同じくインド系でした。従って、ある日本の大学で教授が公言された「マレーシアのインド系は貧しい労働者だ」という見解は、決して間違いではないものの、正しくもないわけです)、さらには、クリスチャンのインド系だということは、一部の例外を除けば、カーストも絡んできます(後注2:同じインド系クリスチャンであっても、カトリックプロテスタント(メソディストや英国国教会、あるいはペンテコスタル系)とでは、全く社会経済階層が異なり、従って、職業や学歴も違います)。そうであっても、実はマレー人少年達も、きちんと相手を見分ける嗅覚を持ち、尊敬に値するインド系女性の先生に対しては、礼儀正しく、しかも信頼を寄せるということの貴重な事例ではないでしょうか。

なんだかんだと言っても、マレーシアが依然として英国の影響下にある国だということ、日本はアジアの先進国とはいえ、日本語をこの国の人々に推進し、日本留学を勧めるほどの力量と制度をまだ充分には有していないのではないかという思いから、上からの命令でZ博士とTさんが務めた宣伝プログラムに対して、私自身、同行するだけで内心は乗り気ではなかったのですが、エスター先生と共に、聖金曜日の礼拝に、しかもタミル語の讃美歌付きで出席できたことは、得難い経験だったと思います。なかなか一人ではできないことですから。

その後も、エスター先生との交流は続きました。私が行った小さな仮調査の回答を、確かに郵送してくださったとエスター先生はおっしゃったのですが、結局、私の手元には届かなかったこと、その件でいろいろと電話でお話したことも思い出しました。後に、エスター先生が私に、「あなたと最初に会った時には、そういう日本人もいるんだって驚いていたのよ」とおっしゃいました。それまでは、協力隊の日本語教師との接触がほとんどだったこともあり、どこか違う印象を持たれたようなのです。ただし、先生ご自身、何かの国際交流プログラムに応募して、短期で日本に来られたこともあるそうです。その時には、「私、アフリカ人と間違えられたの」とおおらかに笑っていらっしゃいました。偏見だとか無知だとか怒ったりしないで、私にもそういう風に言えるなんて、信仰による強さだなあ、と感じました。

信仰と言えば、エスター先生は、よくお祈りをされる熱心な信者でもあられました。祈りが必要な難しい境遇に置かれていたからもあります。そういう話を私に率直に語られたことは、今でも感謝しています。

話はイポー市での礼拝出席の時に戻ります。「どうだった?礼拝は...」と尋ねられ、インド系牧師にも簡単にご挨拶した後、エスター先生の車でご自宅に向かいました。「おなかすいているんじゃない?」と、用意してくださったハンバーガーを同僚Tさんと二人でいただいたのですが、とても明るく振舞われ、Tさんとも、かつての協力隊のメンバーが今はどうしているかなど、おしゃべりが弾んでいたので、幸せな暮らしを送られているんだろうと、私は勝手に思っていました。ところが、その後のやりとりで、エスター先生が「あなた達があの時イポーに来てくれて、本当にうれしかったわ。実はあの頃、私は失恋中でとっても落ち込んでいたの。相手は華人だったんだけど、いいところまでいったのに、結局だめだと断られてしまったの。もう、部屋にこもって、ずっと泣いていたわ。何度も一生懸命にお祈りもした」。クリスチャン同士では、華人とインド系のカップルも決して皆無ではないマレーシアでも、結婚となると、なかなか難しい面があるようです。エスター先生は、私よりも年上でしたから、焦りがあったのかもしれません。私としても、何と言葉をかけていいのかわからなかったのですが、賑やかに早口の英語で話し続けてくださったので、そこは助かりました。

どんなに学歴が立派で、実力も人柄も申し分ないとしても、イポーなどの地方都市ならともかく、首都圏に出てくると、またつらいものがあったようです。マラヤ大学に教官として採用が決まった時、エスター先生は、首都在住だった私に、電話で連絡をくださいました。引っ越し準備や、自分が卒業してからすっかり変わってしまったであろうマラヤ大学キャンパス案内など、私に手伝ってほしいというのです。もちろん、できる限りのことはさせていただきましたが、結局、ある日の待ち合わせの時間に、車の渋滞が原因で30分遅れてしまい、エスター先生が憤慨されてしまったのでした。それが、上記の「連絡が滞った」きっかけです。
Tさんに相談すると、「私が知るエスター先生は、そんな程度のことで怒るような人ではない。時間がたてば関係修復できるんじゃない?」とのことでしたが、どうやら境遇の変化は人をも変えてしまうもののようです。その後、リサーチでマレーシアを訪問した時に、メモ書きとちょっとしたお土産を持って、エスター先生の研究室に伺いましたが、不在だったので戸口にメモを挟み、お土産の袋をドアノブにかけて帰って来ました。でも、連絡はありませんでした。お土産も、誰かが持って行ってしまったのか、エスター先生ご自身、「もう会いたくはないわ」ということなのか...。

エスター先生のマラヤ大学就職は、個人のキャリアとして大昇進であり、私としても励まされ、うれしかったのですが、先生が話してくださったには、何人かの華人の同僚からさげすまれることが多く、よく部屋で祈りながら泣いていたそうです。華人の同僚達は、海外での学位やカレッジレベルでの教育経歴があるため、エスター先生のようにマラヤ大学出身で、エリート校とはいえマレー系中等学校の教育経歴を持ち、国内大学で学位を取得した新米教官を、低く扱うのだそうです。しかし、エスター先生のお兄さんは、シンガポールの大学を出て、そこに在住していらっしゃるのです。エスター先生の場合は女性ですし、お父様が亡くなってお母様と同居でしたから、その辺りの事情を鑑みれば、別段見劣りすることもないはずなのに、マレーシアでは、日本とはまた別の要因から人が判断されることもあり、その点では多民族社会の統合は難しいだろうと思わされました。

就職が決まった頃、エスター先生は、新聞広告で探したという、首都圏郊外のプタリン・ジャヤの裕福な華人が住む地区に部屋を間借りし、そこから車で通うのだと張り切っていました。引っ越しのお手伝いに呼ばれた私も、ご一緒にその家に行ったことがあります。確かに大きくて立派な二階建ての家でしたが、ご主人にあたる恰幅の良い華人男性が、エスター先生を見て、「どうしてもあなたがマラヤ大学の教官だとは思えない。本当に博士号を持つのか?フィリピン・メイドじゃないのか?」「あなたの英語を電話で聞いて、華人のプロフェッショナルだと思ったから部屋を貸すことにしたのに」と言ったのは、大きなカルチャーショックでした。肌の色や見かけや出自ではなく、その人がどういう人柄なのか、どのように人生を切り開いて努力しているのか、という観点で人を見る習慣を自分に強いていたため、余計に何重ものショックでした。
エスター先生、もっといい人のところに間借りしたら)と思ってしまったのですが、先生の方も、新学期が迫っていたこともあって、これ以上、部屋を探す時間が充分になかったようです。「平日は大学にいる時間の方が長いし、日曜日には教会にも行く。新しい友達は、ここの教会活動で見つけるわ。部屋には、主に寝に帰るだけだから大丈夫。私がきちんと仕事をし、家賃も正直に払って、いい人間であることが証明できれば、家主さんだって、そのうちきっとわかってくれるわよ」と明るく言いました。ここでも、信仰だなあ、と思いました。

最初はそういう健気なつもりでも、やはり大変なことが続いたんだろうと思います。だから、渋滞で30分遅れた私に対しても、余裕がなくなってしまったんでしょう。

エスター先生は、朝は5時に起きて、まず聖書を読んでお祈りし、体操をしてから前日に用意しておいたパンと果物で朝食をとり、その日の講義の準備をするのだと言っていました。車が渋滞するのを恐れて、かなり早目に出かけるのだとも。学生達は、非常に真面目でよく勉強し、質問も活発だと言っていました。ただし、英語で教育を受けたエスター先生にとっては、マレー語での大学講義は、かなり手間取るようでした。

こうしてみると、エスター先生がなぜメソディストなのかの理由も背景も、なんとなくわかるような気がします。マレー系選抜学校でもマラヤ大学でも採用されたエスター先生の事例から、マラヤにメソディスト教団がもたらした卓越した学校教育の影響をうかがいしることができるように思います。