ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシア人の先生から学ぶ

昨晩も、原稿書きのためにマレーシアの出版物を見ていて、「賢く現実的に生き延びる術」を早く身につけた人が有利な社会なんだと再認識したと同時に、いろいろな人がいるのでまとまりにくいけれども、多様性のために個人として力を発揮しやすいところもあるのではないか、そういう意味で、土着マレー人が他者を受け入れた寛大さ、あるいはしぶしぶ受け入れざるを得なかった一種の無頓着さ、何とかイスラームというアイデンティティで共同体を守り抜きたい、という意志を感じました。もっとも、外来系の人々の方が、さまざまな意味で中途半端な立場ながらも、逆にその曖昧さを利用して頑張っていることに感銘を受けます。
日本で私が受けた教育は、どちらかといえば理念的抽象的なものに傾きがちで、マレーシアの大学のやり方になじむのには、かなり戸惑いました。やはり英国植民地時代の影響は深く浸透していて、英語を使いこなす力も、日本の教育程度では到底間に合いませんでした。それを、豊かさととるか、否定的にとるかで、人生の方向性が大きく変わってきます。
時間はかかったけれども、こうして今まで生活が続けられ、自由に勉強できてありがたかったと思います。マレーシアに関しては、本当に知らないことわからないことが多く、不安と焦燥感の中を必死になってあれこれ勉強せざるを得ませんでした。資格だとかの目に見える形では残っていないにせよ、この10数年間、自分なりに積み重ねてきたものについては、活かすかつぶすかも自分次第です。
マラヤ大学で指導教官だったマヤ先生が、2年前に少数派の言語問題についての長年の研究で、Linguapaxという賞を受けられたことを先程知りました。随分白髪も増えてお歳を召されたような...。この先生に巡り会えたことのメリットは、専門職のインド系女性の生き方をまざまざと知ることができたことです。何ともバイタリティに富んでいて、非常に目敏いタイプの先生で、それまで日本で扱われることの多かったインド系女性のイメージは、完全に一掃されました。確かに、英領インドと英領マラヤの関係を歴史的に振り返るならば、こういうタイプのインド系専門職がマレーシアを支える一端となられたことは、よくわかります。
マレーシアのカトリック教会に目を向けるきっかけをつくってくださったのも、マヤ先生でした。ただし問題は、先生の領域と私の関心事が大幅にずれていて、先生の方も業績つくりのためか、とにかく会えばせかす一方で、きちんとした指導そのものはほとんど受けられなかったことです。本来、マラヤ大学での指導がどのようなものか、どういう体制にあるのかをよく知ってから取り組むべきだったのに、インターネットのある今ならともかく、当時は、正直なところ、行き当たりばったり、向こうに行ってみなければ何が何だかわからない、という状況でした。そんな風なのに、どうしてこういう道に飛び込んだのか、無鉄砲で無計画な、と思われそうですが、あの頃の自分としては、これも精一杯の選択であり、何かご縁があったのだろうとしか言いようがありません。若い時の冒険心でもあったのでしょう。知らなかったからやってしまったという...。女性だから許されたことでもあるでしょう。日本の大学は、今なら多様な選択もありますが、私の世代ではまだ限られていたように思います。
マヤ先生の仕事ぶりは、それはもうすごいもので、研究室は座る場所を見つけるにも困るほど、天井までうず高く資料や本の山でいっぱいでした。ビジネス階級出身ということもあり、人間関係の構築が上手で、しかも非常にドライです。マレー人との関わりは、刺激しないようにうまく振る舞いつつも、きっぱりと割り切ってつき合っていたようにお見受けしました。「そういう人達と関わるのはやめなさい」などと言われたこともしばしば。けれども、後で判明したのは、そういう先生も、一時期、「そういう人達」の主催する組織から本を出されていたのでした。
研究室でも、同僚同士仲良くするというよりは、個々人が自立して自分の仕事だけに専念するような体制だったと記憶しています。ある日本人の先生が、「研究上の議論ができるのではないかと楽しみにしていたのに、ここでは廊下で会っても挨拶もしてくれない」とぼやかれていたことも思い出します。しのぎを削って多くの仕事をてがけ、マイノリティとして存在を認めてもらう、というやり方がマヤ先生だったように思います。あるマレー人の先生が、「あ、あの先生?別に普通の先生だよね、でも夜遅くまで仕事している」とマヤ先生を評されていましたが、この表現は、マレー人の非マレー人に対する脅威や危機感と同時に、裏返せば、保護された特権付きマレー人としての一種の優越感の表れであったようにも思います。ただ、この当時の私には、ショックなことでした。
主人が言いました。「この一年、これまで集めた資料をまとめる作業に専念して、その後の方針を考えればいいんじゃないか」。確かに、マラヤ時代のキリスト教宣教団が残した英国や米国の一次資料のありかを辿るリストを見ていたら、わくわくしてきました。やっぱり、遠回りのようでも、こういう方向が自分には合っていたんじゃないか、と。
マヤ先生も、元々は経済のご専門で、その後、社会言語学に方向転換されました。先生のご経歴を拝見していて、懐かしい感じもします。私と接してくださっていた数年間は、こんなお仕事をされていたんだな、と。本当に、日本とは異なる状況だったので、何もかも必死でしたが、それもよい経験だと思えるようにしたいものです。マヤ先生を見習って、頑張りましょう!
マヤ先生については、2007年12月29日・2008年3月26日・4月9日・5月14日・10月14日・12月29日付「ユーリの部屋」をご覧ください。