ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「煙れる亜麻」/「ほのくらき燈火」

太田愛人先生のお話があまりにもおもしろかったので、新渡戸稲造矢内原忠雄訳『武士道』や会場で買った太田愛人先生のご著書を、ラインを引きながら夢中になって読んでいるところです。なるほど、10年前には頭で読んでいたのが、今なら多少は実感を伴って読めるようになってきたかとも思います。

ただし昨日は、先生のご著書151ページを読んでいて「イザヤ書42章」とあるのに引っかかり、時間がそこで止まってしまいました。これは上記岩波版『武士道』の148ページの言葉「煙れる亜麻」を指すのですが、文語訳でこの表現を探してみても、どうも見つからないのです。ネット上で検索すると、確かに「イザヤ書42章」の言葉らしいのですが。あらら?

気を取り直して、近所の図書館から、先生のエッセイが収められている三冊の随筆集を借りてきました。例によって読書ノートに記帳しながら、中身をめくってみると、ただもう「なつかしい」の一言に尽きます。(学部生時代は、こういう本をよく読んでいたなあ、いつの間に進路がずれてしまったのだろう)とも思いました。やはり、子どもの時からよいものに触れること、若い時代によい文章をたくさん読むことの大切さを痛感します。

・『日本の名随筆59 菜荻昌弘(編)作品社1987/1992第7刷
・『日本の名随筆94 草杉浦明平(編)作品社1990/1995第5刷
・『エッセイの書き方日本エッセイスト・クラブ(編)岩波書店1999年

三冊目の杉浦明平(みんぺい)氏は、1913年愛知県渥美郡福江町生まれの評論家兼小説家の方です。土屋文明立原道造と親交があり、アララギ会員でもいらっしゃいました。東大の国文科卒業ながら、独学でイタリア語を習得してルネサンス研究もされたそうです。一時共産党にも関与されていたとか。名古屋出身の私にとって、地方新聞紙上でなじみ深いお名前でした。

少し古いエッセイのよいところは、含蓄が深いところと、非常に個性的ではっきりと書かれている点です。どの書き手もおおらかで感性が細やかだという印象を持ちます。今の文章にも、私が知らないだけでよいものも多いのでしょうが、「それは差別的だ」との苦情や人権的主張などから、表現に制約もかかってくることが増えたり、「誰にでもわかる書き方をせよ」などと、読み手の教養程度に合わせた表現を要求されたりするので、かえって中立曖昧な文章も目立つようになってきたかと思います。

今日のところは、短いですがこの辺で失礼いたします。それにしても、読みたい本が次々出てきて、困っちゃいますねえ。

追記1:
わかりました!新渡戸先生が意図されていた引用が、もしもイザヤ書42章からならば、「煙れる亜麻」ではなくて「ほのくらき燈火」とすべきでした(「また傷める蘆ををることなくほのくらき燈火をけすことなく眞理をもて道をしめさん」(イザヤ書42章3節)。ただ、実は「煙れる亜麻」という表現そのものは、マタイ傳福音書の12章20節にあるのです(「煙れる亜麻を消すことなからん」)。
ですから、太田愛人先生もネット上の論考も、イザヤ書だと書かずに、マタイ福音書からだと表記すべきだったかと思われます。何だか、読んでいて変だなと思って引っかかったのです。やはり、本は批判的に読まなければなりませんね。また、平凡社に投書しようかな?
追記2:
というわけで、気の短い私は、葉書を早速平凡社宛に投函してしまったのですが、どうも気になって新共同訳King James Versionを見てみました。またもや「あらら?」です。
結論から言えば、太田愛人先生が、矢内原訳ではなく、新渡戸氏の英語原文のみを参照して書かれたのであれば、「イザヤ書42章」としても問題はなかったのですが、「ノーブレス・オブリージェ」の誤表記に見られるように、岩波の矢内原訳を用いたとあるので、やはり問題になるでしょう。
・新共同訳[イザヤ書42:3] 「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」
・新共同訳[マタイ12:20] 「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」
←私の聖書のマタイの方には、どこかの論文か概説書から写したメモ書きがあり、「くすぶる灯心」は「別訳:煙れる亜麻」と記しています。

ところで、一部で評判の岩波訳(佐藤研訳)では「彼は、傷つけられた葦を砕くことなく、燃え残る〔灯火の〕芯を、消すこともないであろう、彼がそのさばきを勝利に導くまでは。」となっており、バルバロ訳(ドン・ボスコ社)では、「かれは、傷んだ葦も折らず、煙る灯心も消さない、まことの信仰を勝利にみちびくまでは。」としています。
問題となるのは、日本語訳の方ではなく、文語訳が参考依拠の一つとしたとされる、英語訳King James Versionなのです。手持ちの版はアメリカ聖書協会による発行ですが、イザヤ書42章もマタイ12章も、‘smoking flax'となっています。
・Isaiah 42:3 ‘A bruised reed shall he not break, and the smoking flax shall he not quench: he shall bring forth judgment unto truth.'
・St.Matthew 12:20 ‘A bruised reed shall he not break, and smoking flax shall he not quench, till he send forth judgment unto victory.'

こうしてみると、欽定英語訳の方が、形式的にはかっちりとした統一訳になっていると言えそうですね。新渡戸先生は、異郷の地にあって、日本語参考文献も充分にないまま、英語で秘書を通して海外に向けて口述筆記されたそうですから、文語訳に頼る方がそもそも間違いなのかも知れません。

ともかく、慌てて葉書を書いたせいで、一部間違ってしまいました。あらら、あらら、あららです。