ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

読んだ本・聴いた音楽

2008年1月28日付「ユーリの部屋」で言及させていただいた‘あしながおじさま’からのプレゼントの一つに、無教会研修所無教会研究:聖書と現代第8号2005年)があります。
中身が濃いので、少しずつゆっくり読んでいるのですが、(さすがは)と思う記述が多いのはもちろんのこと、同時に、(若い頃からこのような話に触れていれば、もっと進路が違ったはずなのに)と残念に思うこともしばしばです。つまり、勝手を申すようですが、(知らなかったが故に、不必要な悩みを悩まされた)という気がするのです。
例えば、「外から見た無教会」(佐藤洋子氏)(pp.31-59)では、通常の教会と無教会の比較、日米のキリスト集会の相違や特異性、無教会に対する牧師の態度や理解の有無、無教会人だからこその無教会批判などが、非常にバランスよく的確に論述されています。そういう思考や発言が許される環境にもまた感じ入った次第です。
「それは自分の選択だよ」とおっしゃらないでくださいね。若い頃の環境は、自分では選べないのですから。または、「それも神様の御心です」と都合よく言いくるめないでください。本当に、この歳になると、見えてくるものが多くなるので、過去を振り返ってイライラさせられることも増えてきて、気がついた損失を取り戻すのに相当のエネルギーと時間を要すると思うのです。「運・鈍・根」としばしば言われますけれども、後者二点は何とかなるとして、「運」だけは、不可抗力ですから。巡り合わせがずれると、どうしようもなく無駄足を踏まされることになります。これは、客観的に見ても事実です。

上記冊子の冒頭には、月本昭男先生による「人はひとりではないー旧約聖書にみる愛の倫理―」という聖書講義が掲載されています。既に別の本で読んだ内容と一部重複している箇所がありますが、それはともかくとして、次の一文には目が釘付けになります。

「愛は、無価値とみえるところにかけがえのなさを発見し、そこに新たに価値を創造してゆく「はたらき」ではないか。」(p.3)

そうすると、私のマレーシアに関する研究テーマも、突き詰めると、原動力はそこにあるのではないか、とも言えるでしょう。繰り返し国語の呼称が変更されたり(マレー語→マレーシア語→マレー語→マレーシア語)、何度も水面下で各種言語の聖書が押収されたり発禁措置をとられたり、先住民族系の教会が破壊されたり、教会の新築増築の許可がなかなか下りなかったり、その他のヒンドゥ寺院の取り壊し事件なども含めて、あまりにも「無価値」な事件が多過ぎるように見えます。
しかし、そういう国に住む人々にも「かけがえのなさを発見」して、少しでも理解を深めるために研究しようとしたところに、私なりの立脚点が見出せるのではないかと思うのです。ただ、「新たに価値を創造」するところまでは、なかなか状況が許さない点がありますけれども。

それから、昨日は荒井献(著)『「強さ」の時代に抗して岩波書店(2005年)を借りてきました。案外すぐに読み終えられました。
青山学院神学部の問題や学生運動などと連動した教団紛争も含め、直接関与された当事者としての記述が、非常に興味深かったです。荒井先生には、昨年の学会で初めてお目にかかり、私の会釈にも応えていただきましたが、ご著作や牧師から聞いた批判と、実際に拝見しての先生とでは、荒井先生は荒井先生でいらっしゃるものの、やや印象が異なる面もありました。地方の牧師のご子息として戦時中にいじめられた経験が決定的にその後を強く支配しているらしいこと、その背景を理解せずに先生の天皇制批判に安易に乗ずるべきではなかろうこと、何よりも徹底的な学者肌でいらっしゃること、しかし同時に社会派であろうと努められていること、などを感じました。また、以前読んだ、東神大のある先生との執拗な論争の発端と原因がようやくわかったようにも思いました。
若手を人前でも容赦なく叱責される謹厳なタイプなのかと勝手に想像しておりましたが、学会で拝見した限りにおいては、若い人々に対して教育的指導と人道的配慮を真剣にされるところもおありで、懇親会で出されるお酒の是非についても、ユーモラスに語られるなど、感じるところ多くございました。
また、故前田護郎先生のお弟子筋に当たられるようなのですが、出身背景や時代の相違なのか、同じ学者でも、ご著作を瞥見する限りにおいては、タイプが全然違うようにお見受けします。素人が遠くから勝手なことを申しているだけですが。

ともかく、上記本を読みながら自分の来し方行く末などを考えると、無邪気に夢を抱いていた頃が懐かしく、だんだん気が滅入ってくるのも事実なので、クラシック音楽を楽しんで気分高揚に努めているわけです。そこで、おととい借りてきたCDを記して、今日のところは締めとさせていただきます。

Messiaen “L’Ascension” “Les Corps Glorieux” “La Nativite du Seigneur” “Le Banquet Celeste” Simon Preston (Organ), The Decca Record, London(1963/1965/1970) (「キリストの昇天:4つの交響的瞑想」「栄光の御体:復活の7つの短い幻影」「主の降誕」「聖餐式」)
・Messiaen “Éclairs sur L’au-Delà…” Sir Simon Rattle・Berliner Philharmoniker, EMI Classics, 2004 (『彼方の閃光』「栄光あるキリストの出現」「射手座」「コトドリと結婚の街」「刻印された選ばれし者」「愛にとどまる」「7つのトランペットと7人の天使」「そして神はことごとく涙をぬぐい去ってくださる」「星々と栄光」「生命の樹にやどる鳥たちの喜び」「神の道」「キリスト、楽園の光
・“Sibelius: The complete Symphonies” 『シベリウス交響曲全曲』渡邉曉雄(指揮)・日本フィルハーモニー交響楽団(1981年)DENON 交響曲第1番-第7番/交響詩トゥオネラの白鳥≫≪悲しきワルツ

メシアンは、カトリック神学者兼鳥類学者兼オルガニストとして著名な現代曲作家です。これまでにも何度かメシアンを聴きましたが、一言で表現するなら、「20世紀の音楽」という点に尽きます。シベリウスは、いかにも北欧の音楽らしい美しさと壮大さがあります。