ヘルマン・ヘッセ『車輪の下に』
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下に』(秋山六郎兵衛(訳)角川文庫665 昭和28年初版・昭和41年39版・平成5年改版47版)を、隙間時間に再読しています。確か、中学生の頃に一度読んでいたのですが、どうもその頃の記憶では、受験勉強の重圧と重ね合わせて読むように指導されていたためか、それほどおもしろいとも思えませんでした。
ところが、今回あることがきっかけで、図書館から借りて読んでみると、なかなかおもしろいんです。特に、前半の神学校のお話での、ギリシア語やヘブライ語の学習だとか、新約聖書を信じていない牧師の話だとか、それについて、近所の信心深いおじさんがハンスにどう諭すか、など、本当におもしろく感じられます。つまり、仏教圏の日本では、中学生程度でそういう類の話を読んでも、どうしても身近に感じられないので、何を言っているのかわからなかったわけですね。
そこは実際牧師の部屋らしく見えなかった。(中略)ここでは大いに勉強されているという印象を受けた。そして、実際ここでは大いに勉強されたものだが、もちろん説教や信仰問答や聖書の講義というよりかむしろ、学界の新聞雑誌のための研究や論文や、自著に対する準備研究のためのものであった。(中略)また学問の峡谷を越えて、愛と同情をもって、渇した民衆の魂へ接近する愛の神学も追放されていた。その代わりに、ここでは聖書の批判が熱心にされ、また「歴史的キリスト」が探求されたが、それは、近代神学者の、あたかも水のように流れ出たもので、また鰻のように指から滑り出て捕えようがないものであった。
神学においても他の領域とまさに同じことであった。芸術である神学もあれば、学問である神学もある。または、少なくともそうであろうと努力しているのである。それは昔も今日も別に変わるところはなかった。そして、学者は常に新しい革袋に古い酒を盛ることを躊躇したが、芸術家は相変わらず多くの外面的な間違いを平気であらためることなく、一般大衆にとって慰安者であり悦びをもたらすものであった。これは批判と創造、学問と芸術との間の、昔からの、不釣合いの争いであり、その際、学問は常に正しいことを主張しながらそのために何人も益されることがないが、芸術は信仰と愛と慰安と美と永遠に対する予感の種子を撒き散らして、絶えず豊かな土壌を見出しているのである。というのは、生命は死よりも強く、そして、信仰は懐疑よりも力があるからだ。(pp. 48-50)
「ハンス」と、彼は静かに言った。「君にちょっと言っておきたいことがあるがね。今まで試験があったので、わしは黙っていたんだが、こうなっては君に警告しておかねばいかん。君は、あの町の牧師さんは不信者であることを忘れてはいけない。あの人は、聖書は間違っていて偽りだと言って君をだますことだろう。そして、君があの人と一緒に新約聖書を読んだら、君自身も信仰をなくしてしまって、それがなぜだかわからなくなるんだ」
「ところで、フライクさん。問題はただギリシア語だけなんです。神学校ではどのみちそれを勉強しなくちゃいけないんです」
「お前さんはそう言うけど、君が聖書を敬虔で良心的な先生について学ぶのと、もはや神さまを信じていない先生に学ぶのとは、おのずから事情が違うからな」
(中略)
靴屋と町の牧師とを比較して見ると、微笑を禁じ得なかった。靴屋の、幾年か苦労して得た、無愛想な堅い信念はわかりかねたものの、その他の点ではフライクは賢いが単純で一面的な人間で、あまり信心ぶっているために多くの人から馬鹿にされていた。時折りのお禱りの集会では彼はその団体の、厳しい裁き手でかつ聖書の独断的な解釈者の役をつとめ、また村々を歩いて教化のお説教をやったものだが、いつもはささやかな職人でありまた他の誰とも変らず無教養であった。町の牧師は、それとは反対に、如才のない、話の巧みな普通人でありまた説教者であるばかりか、その他の点においても勤勉で厳格な学者であった。
(中略)
町の牧師はやがて帰って来て、フロックコートを軽い不断着のジャケツと着更えると、ハンスの手にルカ伝のギリシア版を渡して、それを読むように促した。それはラテン語の課業とは勝手が全然ちがっていた。二人はごく僅かな文章を読んで、うるさいほど逐語的に翻訳した。そして、それから、牧師は、平凡な例をあげてギリシア語の真の精神を巧みに雄弁に説明し、その書物の成立した時代と状態とについて述べ、わずか一時間のうちにその少年に学び方と読み方についてまったく新しい概念を与えた。ハンスはぼんやりとではあったが、すべて一句一語のうちにどんな謎と問題とがかくれているものか、また古代からこんな問題のために幾千もの学者や瞑想家や研究家たちがどんなに苦心したものかがわかった。そして、自分自身までがこの時間に真理探求者の仲間入りができたといった気持がした。(pp.53-56)
(引用終)
今では、このあたりの描写が実感を伴って理解できるように思います。この類の問題は、自分に納得のいくまで、時間をかけてあれこれ考えたことがあります。以前から繰り返しているように、つくべき師や組織に恵まれなかったので、あるいは、何が何だかわからなかったので、一人で考えるしか方法がありませんでした。その代わり、この歳になると徐々に、名作とは、長い間にわたって広く共感を呼ぶ作品であるということが、よく認識できるようにもなってきます。
ところで、昨日の夕刊には、同志社神学部名誉教授の土肥昭夫先生が逝去され、身内で葬儀を済ませたとの小さな訃報記事が掲載されていました。つい昨年6月下旬には、京都のクリスチャンアカデミーで教会史に関する講演をされたのに、と愕然とします。アジアのキリスト教史の先導を切るようなお仕事をされていましたので、マレーシア赴任前から、ご著書については存じ上げておりました。(ただし、マレーシアについては、どういうわけか抜けていました。)こうしてみると、キリスト教界で、次々と大物の先達が逝かれてしまっていることを改めて感じさせられます。若手と中堅の育成と水準上昇が、さしあたり喫緊の問題なのではないかと思われます。
3月の「ユーリの部屋」では、借りたり買ったりしたCDのことを書きませんでした。忙しくて、それどころではなかったというのが実情です。ただ、言うまでもなく、毎日のように、FMラジオあるいは手元にあるCDを聴いていました。また、日課だった山の散歩も、2月から3月にかけてはお休みしていました。めったにひかない風邪を引いたために、咳や鼻水が続いていたからでもあります。日々の記録をつけているので、だいたい自分のパターンがわかります。本当は、哲学者カントのように、もっと規則正しく一定した暮らしを理想としているのですが。