ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

新渡戸稲造『武士道』のお話

昨日は、小雪の舞う中を京都北部まで出かけて、「修学院キリスト教セミナー」第5回目の講師でいらっしゃる太田愛人先生から「新渡戸稲造の『武士道』の歴史的背景―敗者の精神史―」と題するお話をうかがいました。(参照:2007年12月24日付「ユーリの部屋」)
またもや高齢者が多数派でしたが、約40名が集い、熱心で落ち着いた雰囲気のもと、楽しい時を過ごさせていただきました。先生のご著書を手にして出席された女性、息子さんが新渡戸稲造について論文を書いていたというご夫婦、新渡戸稲造を尊敬しているという男性、矢内原忠雄氏の全集を電車の中で読みながら来たというご高齢の方、絶版になった先生の著作を探しているという方など、さまざまな理由で集まられたようです。
実はこれまで、太田愛人先生のお名前は存じ上げていても、まだ読んだことがなかったので、これを機に是非ともと、特別価格で販売されていた平凡社新書353「『武士道』を読むー新渡戸稲造と「敗者」の精神史」(2006年初版)を、会場受付で早速買い求めました。
先生は、とても80歳とは見えないほど、背筋がピンとされていて、声も大きく、朗々とハリのある話し方をされ、さすがは東北の士族系の血筋を引く方は違うなあと、お目にかかれたことの幸いを思いました。
わかりやすさと公共性と中立性(?)が主眼であるNHKテレビでは、一般視聴者に向けてのパウロ書簡のお話のためか、かえって先生の持ち味が十二分に発揮されていないようにも感じられました。聴き手である草柳隆三氏の引き出し方にもよるかと思いますが、せっかくなのにもったいないと感じた次第です。
レジュメもなく、2時から3時35分まで滔々と流れるように話されたのに驚いていたら、10分間の参加者自己紹介と25分間のお茶の時間をはさみ、4時10分から5時20分まで、さらによどみなくお話が続いたのには、驚きを超えて、鍛練の相違を改めて感じさせられました。考えてみれば、レジュメというのは大学の講義や研究発表の補助手段であり、本来は、話す側も聴く側もそれに頼るべきではなかろうことに気付きました。先生のように30冊以上もご著書があり、かつ牧師もされていたならば、いつ何時人前でお話をする機会があっても、常に準備万端なのでしょう。そうであっても、テレビでパウロを語るとなれば、「神学生時代以上によく勉強した」ともおっしゃっていました。こういう生の声が直接うかがえるところに、セミナーに出かける意義があると思います。
比較にはあまり意味がなく、かえって失礼かもしれませんが、今回の新渡戸稲造に関するお話は、昨年8月に新渡戸シンポで聴いたお話よりも、正直なところ、もっと生き生きしておもしろかったです。何がそう思わせたのかを考えてみると、一言でいえば、同じキリスト者の講師であっても、大学教授(昨年)と牧師(今回)とでは、話の運び方や視点の相違があるのではないかと考えます。良し悪しの問題ではなく、職業柄、メッセージを発する相手や場所が、広いようで割と限られていた前者に対して、限定されているようでいても、著作などは一般に開かれている後者の違いではないかと思います。したがって、大まかな傾向として、昨年は、シンポジウムの儀式としての意味も含めて、構造的にかっちりとした理念先行ないしは思想紹介とその継承実践のお話であり、今回は小規模の会合で、自由で柔軟な事実重視のお話になったかと感じました。そして、決定的な違いがどこからくるのかと言えば、「同郷人について語るか否か」であると思われます。太田愛人先生は、新渡戸稲造と同じ盛岡の南部藩のご出身なのです。

お話全体は、ご著書に沿ったもののようでしたが、端々に重要なメッセージが出されていたと思いますので、例によってメモを参考に、以下、ポイントを列挙していきます。

・昨今、「武士道」がしばしば取り上げられることがあるが、その取り上げ方が戦前戦時中とかなり違う。「武士道」を褒めているが、とらえ方に問題がある。例えば、PHP出版の『武士道』は、表紙に刀を振り回すサムライの絵があり、驚いた。誰を読者に想定しているのだろうか。訳者は京都の人らしい。
・地下で新渡戸先生は泣いているのではないだろうか。いかに理解するかが大事である。
・ところで、不思議な巡り合わせで、NHKから話が来て、パウロの手紙について語ることになった。実は、新渡戸のクリスチャンネームは「パウロ」である。(ちなみに、内村鑑三は「ヨナタン」)。もし使徒パウロが東へ行っていたら、また違った物語であり、書簡も違っていただろう。パウロのコイネー書簡は、なかなかの名文である。新渡戸も英語で書いた。すなわち、外国語で自分の学問や信仰を伝えた点に、二人の共通項がある。
薩長政権の下で、盛岡は「あらえびす」として敗者であり、屈辱的な思いをさせられた。出世コースから外れた道を、新渡戸も踏むことになった。薩長に逆らったために、盛岡は貧乏に苦しむことになった。
・植民地においても、誰がどのように治めるかで異なってくる。
・バイタリティだけでは国際的に通用しない。メンタリティとモラリティとソーシャリティが必要であるが、日本人にとって一番不利なのは、ソーシャリティである。
・新渡戸は、「君たちは誰から生まれたのか。女性を大切にしなければ…」と諭した。そして、女子大学や女子校の設置に対して、尽力し配慮した。
・右翼ジャーナリストで『武士道』を振り回している人は、新渡戸を最後まで読んでいない人である。
矢内原忠雄訳に依拠したので、本の中では「ノーブレス・オブリージェ」としたが、後で「ノーブレス・オブリージュ」が正しいとコメントが来た。
神谷美恵子氏は、「おじいさまのような方でした」と新渡戸について語っている。
・デモクラシーとは、敗者や貧者による下積みの戦いである。この点を訴えたい。
・同じ読むのでも、正しい読み方とゆがんだ読み方がある。
・日記によれば、昭和になると、内村鑑三の教会批判はぴたりと止んでいる。教会と無教会では、個人のレベルで見れば、交流はなかなか濃密ではないか。
・書物からだけではなく、談話から見ると、背景がわかってくる。
・函館の波止場には、居酒屋新島という店があるが、同志社神学部がそれを聞いたら、怒るだろうか(笑)。吉田松陰は下手して捕まったが、もしそうでなければ日本の歴史もかなり変わったのではないだろうか。
・昨年、教文館からニコライ大司教の日記の和訳が出版された。全巻で10万円なので、(金ないなあ?/買えないなあ?)と思っていたら、社長から書評やれと言われた(笑)。書評であれば、流し読みはできず、10日で読んたが、目が大変疲れ、読書公害だと思った(笑)。
・ニコライは新島と会いたくて京都に来たが、実は会えず。会っていたら結構面白かったかもしれない。ニコライの目を通して日本のキリスト教史を書くことは、これから大切ではないだろうか。ケーベル博士。波多野精一。愚か者が東大教授になり、京大哲学科がよくなった。ニコライは、生粋の伝道者として内村鑑三を褒めている。
・国を憂える人が本当の愛国者である。貧乏で敗者の中には、国を憂える人もいた。
・岩手出身の指導者は、畳の上で死ねない。(例)後藤新平原敬新渡戸稲造など

他にもありますが、聞き取り私的メモなので、煩雑不正確になるのを防ぐためこの辺りで留めます。

実は私、1998年8月22日に大阪梅田で岩波文庫版『武士道』(矢内原忠雄・訳)(1938/1974/1997年第58刷)を買いましたが、読みが浅いためか、どうも記憶が薄かったのです。今手元にあるものを開いてみると、確かにラインがあちらこちらに引いてあるので、読んだことは読んだようなのですが。これを機に、再度きちんと読み直してみようと思います。
それから、太田愛人先生のご著作をパソコンで調べて、一覧表を作ってみました。題名によるキーワードは、「パウロ・明治のキリスト者新渡戸稲造神谷美恵子・羊飼い」「食・食卓・田園・自然・大地・森・緑」「辺境」と大きく三つに類別できるかと思います。もともと、盛岡農林専門学校で林学を学ばれ、その後、東神大院で神学を修められ、豪雪地でも牧会されていたそうです。系譜としては、どこか内村鑑三の植物学を彷彿とさせますし、先生の牧会地の一つであった信州といえば、私事ながら大叔父とも関係が深いので、今回のお話は、誠に光栄なことに、私にも全く無縁というわけでもなさそうです。

帰りの送迎バスの中で、参加者の一人が「関西人とは気質が違いますなあ」とおっしゃっていました。確かに、名古屋人と比べても、気骨や気概が全く異なると感じました。
先生におかれましては、これからもお元気でご活躍いただき、ご鞭撻たまわりたいと、心より祈念申し上げます。