ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

神戸バイブルハウスにて(5)

ところで白方先生は、ご両親がプロテスタントでいらしたので、子ども時代から教会学校にも通い、青年期に信仰の自覚を持たれ、結果的に「脳神経外科を専攻してよかった。医療現場での経験からも、神の存在を認めざるを得ないことがわかった」という意味のことをおっしゃっていました。白方先生のみならず、社会が世俗化し、公的な場では信仰や宗教の表出をしないフランスなどで、私的領域においては篤信のキリスト教カトリック)信徒であるという優秀な科学者(大学教授)の話などもあります。その一例は、あるカトリック冊子に掲載されていた東大名誉教授のエッセイで知りました。

科学や医学などの分野における業績の進歩性・高度先進性と信仰の関係について、高次元を単に渇仰するに留まらず、自己レベルに引き下げて考える時、私なりにどのように結論づけ、態度決定すればよいのでしょうか。ある程度ここが落ち着かないことには、刹那的、あるいは思考保留的状態に陥り、表面的には一時うまくいっているように見えても、結局は無駄足を踏んだり、無意味な努力に精魂傾けたりすることになる恐れもあるからです。

例えば、『聖書愛読』を通して、故前田護郎先生が希望をもって楽観的に予想されていたことは、残念ながら、現在、必ずしもその通りに実現しているわけではありません。その場合、それに気づこうともしないか初めから無視するという態度は論外としても、相手ないしは社会が悪いと批判するのか、自分達のやり方にどこか問題があったかもしれないと冷静に分析し反省するのか、二通りの選択が考えられます。長い目で見れば、この違いは相当な開きを生むであろうと思われます。

また、先日の神戸での談話会では、浄土真宗系のお舅姑さんを持つ方で、月に一度お寺さんが家に来られた際、いつもさまざまな相談をしていた、という事例も出ました。その方自身は教会に関係されているようなのですが、もし、お舅姑さんにとってキリスト教が肌に合わないのであれば、なじみのあるお坊さんに相談して解決の方法を探るのも、決して悪いことではないと思います。むしろ、信仰熱心で聖書はよく知っているかもしれないけれども、社会経験に乏しくて視野の狭い牧師(という人が仮にいたとして)に相談して、後先のことも配慮せずに誤った結論から路頭に迷うことになるぐらいならば、檀家の面倒をよく見てくれる親身なお寺さんのお世話になった方がよい、ということもあるでしょう。

実際、昨日書いた京都の仏教系大学の講義を聞いた時には、私自身、貴重な学びができたと思いましたし、(日本のクリスチャンって、キリスト教のことばかり宣伝したがるけれども、自分で思っているほど仏教の正確な知識もないのに、あれこれ悪口を言っているなあ。だから、ホスピスのこともこう言われてしまうんだ)と感じたことを思い出しました。私が20代の頃、「葬式仏教」と揶揄的に表現されていた牧師を知っています。多分、高度に体系化された仏教哲学をご存じなかったからでしょう。何よりも、私が家で枕を高くして安眠している間に、奥様も揃って、いつ何時、緊急事態で呼び出されても出て行けるように、常に備えをして、長年ボランティアで非行少年達の指導に当たっている方が敬虔な仏教徒だったということには、非常に感銘を受けました。視野は常に広く保つよう努力を怠ってはならないと、しみじみ思います。

その点、白方先生はとても率直で、「私は仏教の勉強をしたことがないから、わかりませんけれども、自分にとってはキリスト教が一番身近でわかりやすいので、こう言っているだけです」とおっしゃっていました。恐らくそれは、先生ご自身のお人柄もさることながら、ご専門が医学と医療であるからだろうと思われます。ただ、牧師やキリスト教一筋というタイプのクリスチャンなどの中には、そういうことを聞くと立場を失うような気がして、耳をふさぎたくなることもあるかもしれません。

私自身も決してえらそうなことは言えませんが、結局のところ、なんであろうと、自分にとって都合の悪い話にも、勇気を持って直視する態度を保たなければならないだろうと思っています。どちらかと言えば、子どもの頃から私は、多数派に甘んずるより、少数派や自分とは異なった考え方に耳を傾ける方だったようです。よく祖母や母にも、「あんたは珍しい特別な話ばかりに注目する。もっと一般大勢に添わなければならない」と注意されていました。私としては、皆が持つような普通の感じ方や考え方はだいたいわかるので、そこから一歩踏み出し、自分を相対化するためにも、あえてそういう癖をつけていたつもりだったのですが。主人に言わせれば、「それは違う。ユーリの場合、わかっとらん人のつまらん意見にも振り回されていることがある」とのこと。うーん、この辺が私の実態ですか…。

これまで見聞した範囲内で理解したところによれば、無教会の特徴の一つとして、一人一人が自分で聖書を手にとって読み学ぶ、という自主性が挙げられるかと思います。無論、これにも一種の危険性がないわけではありません。知力に恵まれたハイ・プロフェッショナル階層の無教会の人々ならともかく、聖書を最初から最後まで自分で読み切ることのできないような人々にとっては、やはり適切な指導者が必要でしょう。それはそうと、白方先生も含めて、無教会の方達のお話を見聞していると、各界の専門家でいらっしゃいながらも、その信仰はかなり素朴で簡明直截なことに驚かされます。こむつかしく揺れの大きい、いわゆるリベラル神学の議論に触れた者にとっては、どこか昔なつかしい保守性を感じることすらあります。
換言すれば、そこに秘訣が隠されているのではないでしょうか。つまり、真理そのものは、その性質において簡潔なものである。しかし、それをどのように受容し、どこまで実践し応用発展させるかは、それぞれに付与された遺伝的環境的素因により、また社会的時代的背景により、そして、各々の文脈により、異なってくる、と。
そうであるならば、キリスト信仰を持てば病気や痛みや問題等々を克服できるかどうか、などという次元で一喜一憂し、依存し過ぎたり反発したりするのは、キリスト教の真偽性や講師の信仰そのものを問う以前に、むしろ、自己の生き方全体の映し鏡として、やや反省すべき点があるのかもしれません。