ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

神戸バイブルハウスにて(4)

充分煮詰め、整理しているわけではありませんが、昨日の神戸バイブルハウスで見聞した話を契機として、とりあえず思い浮かんだ雑感を、以下に綴ってみたいと思います。

昨日、焦点となった話の一つに、いわゆる神癒の問題がありました。繰り返しになりますが、「福音書の病気治しの奇跡は現在でも起こりうる」と主張し、祈りと信仰を強調するグループがキリスト教に存在することは確かです。マレーシアでも時々聞きましたが、日本にもあるそうです。アメリカなどでは、もっとあるでしょう。
もしその主張どおりならば、科学的根拠に欠けるとされる民間信仰との区別はどこにあるのかという問いが浮上します。当事者にとっては、なんでもいいからとにかく治ればいい、という必死の思いなのでしょうが、私自身、本来のキリスト教とは、そういう御利益信仰とは決別されるべきであると思っています。ただし、その場合、キリスト教を本当に信仰し続ける人々は、世界中でもごく限られた一握りになってしまうであろうことも、充分予測されます。なぜならば、実は極めてシンプルであるにもかかわらず、聖書に示される倫理性は極めて厳しく高度なものであり、思想としてのキリスト教も、ある程度しっかりした体系だからです。したがって、教会への集客力を高め、惹きつけておくために、一種の方便として、そのような話を説教に引用したり教会で実践しようとする牧師がいたとしても、決して不思議ではありません。
また、大衆レベルでの人間心理として、「信仰しても何もいいことが起こらないなら、信じる意味はない」という感情があることも、また無視できるものでもありません。同じ生きるならば、できるだけ楽しく幸福に、いい気分でいたいというのが自然だからです。

50年以上に及ぶ医師としてのご経験、特に二つのキリスト教系病院における医療現場でのご経験によれば、白方先生は明快に、「現実には、神癒の症例は一件もありません」とおっしゃいました。私が書くべきことでもありませんが、医学は何より科学であり、再現性と検証性が保証されない限り、偶然の数例をもってすべてを推し量ることは邪道だからです。科学者としての白方先生に、改めて敬意を抱いた次第です。むしろ、そうでなければ、「キリスト教系病院とはいかがわしい治療をする場所である」というあらぬ評判を立てることにもなってしまいます。

ところが、通常の医療次元ならば当然であろうこの話が、場所がひとたび牧師も含む一般信徒の集まるキリスト教の会合になると、中にはどこかがっかりした表情を見せる人もいたことに、私自身、自分の世間知らずを再認識させられた思いがしました。「では、福音書の奇跡については、どう解釈されますか」「名古屋の日赤病院では、神父に祈ってもらったら白血病が治った人がいて、バチカンから使節団が来て調査に入り、奇跡認定されたそうですよ」などという発言が続いたのです。しかもそれは、複数の壮年男性からだったので、ますますびっくりしました。

白方先生は、落ち着き払ったまま、「福音書のあの話は、原始的治療を誰か知っていたのではないですか。それを書いているのでは?」「今では白血病は治るんですよ」と淡々と答えられました。当然の話です。

他方、まだ腑に落ちない人が出てきて、「では、最初の週に先生は、キリスト教信仰を持っていればうつ病にならない、とおっしゃったけれども、それがひっかかって仕方がないんです。私、一生懸命にお祈りして聖書も読むけれども、かえって落ち込むこともあるし、とにかく痛みに対する恐怖があるんです」「先生のように、しっかりした境地に到達できればいいんですが、そこまで行けない私はどうしたらいいんでしょう?」「うつ病の牧師なんて、いっぱいいますよ」という声も聞かれました。

同時に、その逆の立場から、「自分の人生に生起することはすべて神の御手にあるのだから、自分は人間ドックにも行かない」とか、ガン末期の激痛を和らげるためのモルヒネ投与よりも、「この痛みは十字架にかかられたイエスの痛みに通じるものであり、苦しむことによって清められ救われるため、信仰者たるもの甘んじて耐えるべきである」と唱える「痛みの神学」を紹介される人まで出てきました。
私には初耳でしたが、白方先生も「そういう神学があるんですか?神の痛みではないですか」と問い返され、臨床経験から、「ほとんど間違いなく誰でも、痛みを取ってほしいと願うものです」と言われました。

これらの話を総合すると、結局のところ、「信仰」の在り方に関して、目に見えないものを言葉上の概念化を通して表現することによって、逆に現実直視を妨げていることもあるのではないか、あるいは、キリスト教信仰の絶対性や万能性ないしは独自性や特異性に対する希求が極めて強いことの一種の表われなのか、と思われました。

だからこそ、私自身も先生に質問したように、「宗教の名を病院に掲げると、そうでない場合なら知らずにまっすぐ受容できることでも、誤解に基づく期待値が高くなってしまい、かえって話がややこしくなることもあるのではないか」とも感じました。即座に先生は「そうではない」と答えられました。つまり、先生のおっしゃる「信仰」とは、そういう類のものではないのです。それは私も充分承知の上であえてお尋ねしているのですが、しかし、そのような神学まで現存するならば、ましてや世間一般ではどこかで混同が起こっている可能性もあるのでは、と思った次第です。

ともかく、私がわざわざ神戸までお話を聞きに行こうと申し込んだのは、教会での経験、あるいは本を通して、とかく抽象的に、あるいは狭く理念的にとらえがちなキリスト教という存在に対して、信仰を持つお医者さまの長年にわたる医療現場からの実態をうかがうことで、認識を確実にしたいと思ったからです。事実ほど雄弁なものはないからです。
また、自分の研究テーマとの関連でいえば、白方先生の実務に基づくお話をうかがうことで、かつて英領マラヤ時代のマラッカで、マレー人向けにキリスト教系病院を経営しようとして結局は短命失敗に終わった英国国教会系の宣教師団の話も、派生的に想起しています。

ところで、今回、最初に挙手して私が質問したのは、仏教との対比ないしは関係です。
10年ほど前に、京都市内のある仏教系大学の社会人講座で、仏教系ホスピスと仏教カウンセリングの話を聞いたことがあります。講師は、更生施設や保護観察中の若者達の面談やお世話をして通常の生活へと導く保護司ボランティアを長年されてきた、仏教学の専門家でした。その中で、「日本はもともと仏教文化が深く根付いているのに、多くが仏教徒であるはずの日本人がキリスト教ホスピスでアーメンと言って亡くなっていくのは、どうもけしからん」というお話がありました。仏教系ホスピスは当時ビハーラという名の一例しかなく、それもなかなか増えないのに対して、キリスト教ホスピスは、クリスチャン人口が極めて少ない日本で、どんどん増えていくのはどうしたことか、今一度、仏教のよさを見直してほしい、という趣旨だったように記憶しています。(もちろん、メモも残してありますが、あまり正確さを期すと逆に煩雑になってしまうので、今日はこの程度でお許しください。ミスがあれば後日、修正いたします。)
そして、イギリスからキリスト教系カウンセリングに行き詰まった専門家が来日して、その大学を訪れ、仏教思想によるカウンセリングの実態を学びたいと申し出たという経験も話されました。その時に、私が直接質問して確認したことですが、カウンセラーがクライエントを仏教に改宗させるのがポイントではなく、カウンセラーの側の意識として、仏教的な視点や認識を持つことが重要なのだそうです。仏教的要素が日常生活の中に根付いている日本では、カウンセラーがそれに沿ったクライエント観察や助言をすることで、自然と治癒効果が上がったとの由。「キリスト教は日本文化に根付いていないので、どうしても理屈っぽくなる。ヨーロッパでも、キリスト教は今や行き詰まっている。これからは東洋思想のよさをもっと生かしていくべきだ」とのお話でした。

私の質問は、この仏教系ホスピスや仏教カウンセリングの講義を踏まえ、また、先述の「祈れば病気は癒される」というキリスト教の主張や、対照的な二つの信仰的立場からくる誤解や混乱の実情を踏まえた上で、なおかつ、キリスト教系病院での「宗教的なニーズとは」何か、キリスト教系病院での年間受洗者数が意外と少ない(淀川キリスト教病院で平均10人、日本バプテスト病院で約2人)が、クリスチャン以外の患者さんに対する宗教的対応はどうされているのか、というものでした。

白方先生のお答えは次のとおりです。
「普通の病院で、仏教徒にはお坊さんが来ればよいが、呼ぶことを許していない病院では、対応が難しい。その点において、バプテスト病院ではチャプレンが常在しているので、患者の希望があれば洗礼式を行う。しかし、自分の経験では、絶対にキリスト教の押し付けはしない。ナースも同じである。キリスト教を信じなければ天国に行けないという話は禁句。しかし、医療従事者であるこちら側に、死へのかかわりに対する確固たる信念がない限り、現場ではたじろぐことになるのではないか、と考える。ただし、あるクリスチャンの医師の事例はあった。その医師は、治療の際、患者さんに熱心にキリスト教を説いていた。後で聞くと、患者さんは先生に悪いと思ってアーメンと一緒に言っただけだ、とのこと。それは論外である」。

昨日はレジュメ資料も多くて、印刷インクが途中で切れるほどだったのですが(先生はパワポ式に準備されても、スタッフが印刷段階でひとコマ1ページずつに拡大してレイアウトした関係で)、結構充実した学びの時だったと思います。こういう機会でもなければ、なかなか率直に思うところを質問できませんので。
ただ、先生はさすがにお疲れのようです。なんせ、2時から4時までのはずが、先回と今回続けて、4時50分まで活発に質問が寄せられたのですから。