ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

インド系カトリック教会の背景

昨日も、マレーシアから『ヘラルド』最新号が無事に届き、ほっとしました。

マレー当局からネチネチと断続的に繰り返し難癖をつけられながらも、慎重に交渉ないしは譲歩を積み重ねつつ、一生懸命に28ページの四言語版カトリック新聞を作って、毎週日本まで送ってくださるなんて、感謝、感激です。雨に濡れないようにと、いつも丁寧にビニール袋に包んであります。(よくここまで着いたね。がんばったよ)と新聞に語りかけたい気分になります。

ヘラルド』は、マレーシア全土で12,000部発行とのことですが、たいていは、毎週日曜日のミサの時、どのカトリック教会でも、入口で係の人が販売しています。半島で一部1リンギ、ワンコインで買えます。マレーシアでフィールドリサーチをしていた2000年には、第一面の見出しを見てから、買うかどうかを決めていました。また、インターネット版もあるようですが、編集部の担当者自身が「ネットはあまりよくない。記事の全部が書かれているとは言えない」と教えてくださいました。最近では、やはり購読を申し込んでよかったとつくづく思います。

海外ニュースや国内電子版ニュースの切り張りが多くなったとはいえ、毎週、これだけの多種多様な記事を編集して配布するのは、大変な作業だろうと思います。マレーシアは多民族多宗教社会なので、あるコミュニティにとっては有益でも、別のコミュニティには感情を害するように映る事例が、数限りなくあります。「和の精神」と同調性を求めたり、あらゆる人々に配慮しようとすると、突き詰めればそれこそ何も言えなくなってしまう可能性は充分ありますし、私自身も長年、それを経験しました。

ある大学でマレーシアの一般事情について教えていた頃、ある男子院生が「マレーシアの話って曖昧ですね」とレポートに書いてきました。そのクラスには、ムスリムもクリスチャンもその他の宗教または無宗教の学生も含まれ、しかも学部がさまざまでしたから、こちらも相応の気づかいをして、事実に即した説明を試みたつもりでした。しかし、その学生にとっては、「曖昧」と感じられたようなのです。
「何事も白黒はっきりと決着をつけなければならないものでもなく、むしろ、曖昧なままにしておくことも、拮抗する諸価値が混淆する社会では、平和共存のための一つの知恵かもしれませんね」という意味のことを、返答とした記憶があります。
一方で、矛盾するようですが、どうしても相容れない諸原則に関して、利害が対立する場合には、「対立は対立のままに認める」大人の精神が求められるのだということです。マレーシアから学んだのは、相手を尊重すると自分達のコミュニティの価値アイデンティティが侵食されるケースもあるという実情でした。
例えば、現在、マレーシアの多くのムスリムは「世俗化」(secularisation)に断固反対し、「イスラーム的社会の実現」を希求しますが、非ムスリムの各宗教主導者層は、キリスト教も含めて「世俗化」を要求しています。この場合、文字面だけで日本や欧米諸国に引き寄せて判断してはならないのであって、宗教色の概して濃厚な社会であるマレーシアでの「世俗化」とは、「一つの宗教的価値観だけで国(民族・法体系・教育・経済政策など)をまとめようとしないでほしい」という政治的主張が含まれているわけです。

このように概観すると、解決は非常に困難なものの、対立そのものは決して悪いことではないのだと納得がいきます。むしろ、立場をはっきりさせた方が信頼されることも多いと知りました。(見解が異なるからあの人とは友達じゃない、仲間じゃない)というのは、非常に子どもっぽい態度ですが、その点、日本よりもマレーシアの人々の方が、遙かに大人だと感じることもしばしばです。

また、しばしばフィールドでも経験することですが、表面的に見ればマナジリ吊り上げて対立しているようでも、指導者層の会合などをテレビや写真などで見ると、皆さん、にこにこと談笑しながら、握手したりお茶を飲んだり、一緒のテーブルに座ったりして、時には互いに冗談も言って大笑いしているんです。日本である程度、各種文献や電子版新聞で下調べをしたつもりになってからマレーシアに赴き、街を歩き回ったり人に会ったりすると、いささか拍子抜けすることがあります。記事が大袈裟だったのか、はたまた人々が鈍感なのか、と判断に迷うこともあります。

だからこそ、論文や口頭発表やブログや所属だけを見て、「この人はこんなことを発言しているから、こういう印象を与える」「この文章を見たら、読む人はいい気分がしない」という判断をする人がいたならば、それはちょっと短絡的、と言って失礼ならば、断片だけを見て即断し過ぎのこともあるかと思います。

蛇足ですが、私などは、自分がこういうブログを始める前に、何年もの間、国内外の諸言語(日本語・英語・マレー語・インドネシア語・ドイツ語・スペイン語)で、公式私的含めて、さまざまな方達のホームページやブログ日記を読ませていただきました。結論から言えば、まったく内容に興味がなければ、その後は読まないだけですし、考え方が異なれば(おもしろい)と単純に感じますし、高度な内容を書かれていれば、(すごいなあ。世の中は広いなあ)と思っていました。近いテーマに関するものは、参考にさせていただき、勉強上の刺激にもなりました。ただ、それだけがすべてだとは思っていません。結局のところ、人を理解するとは並大抵のことではないからです。

例えば、2008年1月8日付「ユーリの部屋」を見て、あまり感じのよいものではないのでは、というコメントを寄せてくださった方が、一人だけいました。もちろん、コメントは自由ですし、お忙しいのにわざわざ読んでくださったことに感謝しています。ただ、一言申し添えますと、マレーシアのカトリックを一方的に非難するのは、当事者の読み取り誤解もさることながら、もしかしたら内部事情をご存じないからかもしれないと思い、それについての‘警告’も含めて、あのように書かせていただいたわけです。

昨日届いた2008年1月8日付『ヘラルド』(Vol.15, No. 2)の8ページ目には、「インドのダリット・クリスチャンは、憲法上の差別を逃れるために、自己の信仰を隠している」と題する比較的大きな記事が掲載されていました。この記事転載が意味を持つのは、マレーシアのインド系クリスチャン達の間にも、ある程度まで、その背景と含意が反映されるからです。

マレーシアのプロテスタント教会などでは、教会名を聞いただけで、インド系の間では「ああ、あそこの教会は、あのカーストの人が行くところだ」と即座にわかるのだそうです。カトリック教会の場合は、そこまではっきりとは外示されていませんが、タミル語ミサを持つ教会で、場所によっては、内部で慣習的にそれとなくわかっていることもあるようです。さらに複雑なことに、タミル語と英語のミサの二部式をとっている教会もあり、同じ英語ミサでも、労働者の集まる教会と専門職の多い教会とに分かれますので、教会名と使用言語だけで判断することは、危険でもあり、そもそも不可能です。

蛇足ですが、タミル語ミサに華人の年配女性が出席しているのを見かけたことがあります。たまたまお隣に座られたので、礼拝後にそれとなく尋ねてみると「ああ、私、今日は用事があっていつも行っている教会のミサに出られないから、こっちに来たの」と答えが返ってきました。言葉による説教を重視するプロテスタント教会なら、ちょっと想像しがたい話かもしれませんが、カトリックにおいて聖体拝領が大事ならば、そういうことも充分考えられます。

もちろん、いくら‘学問上のリサーチ’であっても、インド系クリスチャンのカースト問題については、私も直接聞くことはできませんし、聞いたこともありません。唯一、最高カーストプロテスタント牧師(テルグ系二世)とカーストの話をしたことがありますが、これは、ご本人がインド名をそのまま保持していて、ブラーミンだとすぐにわかるからです。(インドの過去の首相に、同じ名を持つ方がいらっしゃいました。)それに、そもそもご本人から、日本の同和問題キリスト教の関係に話を向けてきたのです。もちろん私は、皇族内にもその親戚縁者にも、ミッションスクール出身者やキリスト者が含まれる事例を挙げて牽制しました。

しかし、マレーシアのカトリック教会に関しては、できません。タブーでもあり、マナーでもあるからです。それに、そもそも研究テーマの主眼ではありません。しかし、主眼ではなくとも、ある程度の背景や周辺事情は、できうる限り知っておく必要があると思います。それはリサーチがよりスムーズに気持ち良く進むためにも、相互理解の上でも、非常に重要な要件だと考えます。
ちなみに、初代のマレーシア人カトリック・クアラルンプール大司教は、先頃亡くなりましたがスリランカ系タミル人の方でした。二代目の大司教はマラヤリ系の方で、現在の三代目はスリランカ系タミルの方です。マレーシアのインド系カトリックのコミュニティ内では、スリランカ系やマラヤリ系は、いわば下級公務員ないしは中間管理職として英領マラヤに来た人々だったそうです。また、華人カトリックの方に「なぜマレーシアでは、よりマイノリティのインド系が大司教なのですか」と尋ねたところ、「キリスト教は、インドからマレー半島を経由して中国に入ってきたという点で、インド系の方が華人よりも先にクリスチャンになったのです。ですから、マレーシアもそれに倣っています」というお返事をいただき、とても感慨深く思いました。つまり、地理上の背景から、歴史的にインドがキリスト教受容を先行したことで、中国にも恩恵が伝わった。だから、先輩格としてのインド系クリスチャンに敬意を払う意味で、大司教には慣例的にインド系を立てている、と、マレーシアのカトリック共同体内では考えるようなのです。(余談ですが、その考え方に倣うならば、日本の聖書翻訳も中国語訳が先行していたのですから、日本のキリスト教も、もっと中国を尊重する必要がありそうです。)

リサーチの関係で、私は初代の方から直接手書きのお手紙をいただき、二代目の方とは30分の面接を要請され、三代目の方とは二回面会したことがあります。そして、几帳面な小さな字で書かれたお手紙も頂戴しました。「夫を大事にするように。いつも二人のことは覚えて祈っていますよ」とのあたたかい助言でした。このように、存じ上げている方々のことは、表に見えないご苦労がしのばれ、非常に共感するところが多いだけに、研究上の私の主張としては、非カトリック信者でありながら、カトリック側の立場に寄り添う形になるのです。

クリスチャン名を使っていると、カースト出自は表向き消えますが、逆に、「隠さなければならないカーストなのか」というあらぬ疑いの目を向けることも意味し、極めて複雑かつデリケートです。しかしながら、福音書によれば、そもそもイエスは、社会的にも心理的にも、虐げられ、抑圧され、差別され、嫌われていた周辺の人々を、最初の弟子に選んで、よき知らせを述べ伝えるよう任務を与えたと書いてあります。

であるならば、ましてや外国人である私が、なぜ「研究リサーチ」の名の下に、あるいは自己保身のために、わざわざ抑圧する側に加担しなければならないのでしょう?

≪参考文献≫

・W.F.Oldham, 1914.“India, Malaysia, and the Philippines: A Practical Study in Missions”Eaton & Mains, New York; Jennings & Graham, Cincinnati
・P.Thomas, 1964. “Churches in India”, Publications Division, Ministry of Information and Broadcasting, Government of India.
・Sinnappah Arasaratnam, 1970.“Indians in Malaysia and Singapore”, Oxford University Press, Bombay, Kuala Lumpur.
・Rajakrishnan Ramasamy, 1984. “Caste consciousness among Indian Tamils in Malaysia”Pelanduk Publications, Petaling Jaya, Malaysia.
・Maya Khemlani David & Mohana Nambiar, 2002.‘Exogamous Marriages and Out-migration: Language Shift of Catholic Malayalees in Malaysia' in “Methodological and Analytical Issues in Language Maintenance and Language Shift Studies”Duisburger Arbeiten zur Sprach-und Kulturwissenschaft 46, Peter Lang GmbH, Frankfurt am Main, pp.141-150.
・Robert Eric Frykenberg (ed.), 2003. “Christians and Missionaries in India: Cross-Cultural Communication since 1500 with special reference to caste, conversion, and colonialism”, William B. Eerdmans Publishing Company, Grand Rapids, Michigan/Cambridge, U.K. Routledge Curzon, London.
・拙稿「クアラルンプール大司教表敬訪問記」(日本マレーシア研究会会報 JAMS News No.21) 2001年9月号 pp.22-25(http://homepage2.nifty.com/jams2006
・拙稿「カトリック教会クアラルンプール大司教の退任」(日本マレーシア研究会会報 JAMS News No.27) 2003年10月号 pp.24-30(http://homepage2.nifty.com/jams2006

≪謝辞≫

マラヤ大学中央図書館・同志社大学図書館