ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語に関する逸話と実話

昨日の「ユーリの部屋」では、「マレー語をアセアン公用語国連公用語に」という主張が、マレーシアでは間歇的に見られるという話を書きました。
この話はちょっとおもしろいので、ある教授からのお問い合わせに対する私なりの返答として作成した文書(注:お手紙の形式であって、論文ではない)の関連個所のみ抜粋して、以下に複写します。

2006年7月2日
K.T先生

マレーシアのマレー語に関する三つの質問

1.(省略)
2.(省略)
3. DBPとMABBIMによる2004年の「アセアン公用語にマレー語を」提案


3.2004年の言語問題に関して、電子版Bernama (英語版)の記事やMalaysiakiniのニュースと意見投稿(英語とマレー語)などの保存ファイルにざっと目を通してみました。この年には、マレー語で教育を受けた学生の就職難の問題、華語の有用性(再)確認、英語で理数科目を教える方針の賛否、いわゆるBahasa Rojakと呼ばれる混ぜ言葉の乱用を危惧する内容が目につく程度で、ご質問の提案について、見落としかもしれませんが、一般向け報道で特に大きく取り上げられた形跡は見当たりません。


 その理由として、2004年に限らず、DBPやマレー語学者やマレー人政治家などを中心に、この種の呼びかけがマレー語会合などでたびたび取り上げられるため、特に新しい話題ではなかったことが挙げられると思います。

 例えば、1980年11月22日付New Straits Timesには‘Bahasa good enough to go international’1982年2月7日付Sunday Starには‘Proposal to use Bahasa at Asean conferences’1982年12月21日付Starには‘Rahim: Get Malay accepted for use in the UN’とあるそうです。具体的には、二人の学者が「マレー語は、ASEAN会議や国連で使われる国際言語として、明るい将来を有している」「もしマレー語がこの目的を達成しないなら、我々は真に成功したとはみなされないだろう(注:マラッカ州知事の言)」と提案したそうです(Mead 1988: 78, 104)。
 一方、Asmah(1982: 54)は「最近マレーシア人は、将来、マレー語がASEANの言語になるという明るい概念で楽しませてもらっている。この概念が具体的な形をとるかどうかは、考慮の余地があり、もちろんASEANの指導者達の知恵による。目下のところ、マレー語が、すべてのASEAN諸国によってASEAN言語として受容されるには、道のりは遠い」と冷めた目で見ています。


 この話が繰り返し出現している証拠として、同じくAsmah(1998: 59-61)では、次のエピソードを紹介しています。「数年前、ASEAN会議で、スハルト大統領はインドネシア語でスピーチをしたが、マハティール首相は英語で演説した。マレー語紙のコラムニストは、マレー語をASEAN言語にする機会をみすみす失ったと失望を表明した。もしも、マレーシア首相がマレー語で話せば、マレー語を‘Bahasa ASEAN’として主張できたのに、というのが彼の意見であった」「ASEANにおいて、マレー語で書類を作成するということは起こったことがなかったし、近い将来、そのようなことは起こりそうにない」「マレー語が国際外交に用いられるのは、インドネシアブルネイとマレーシアの三カ国間に限られる。ラフィダ・アジズ第一産業大臣は、1992年末に、マレーシア言語学会主催の開会の辞で、マレー語を‘Bahasa ASEAN’とするよう要求した」「コラムニストも大臣も、マレー語を‘ASEANの一言語’とするのか‘ASEAN言語’とすべきなのか特定はしなかった。‘ASEANの一言語’だとしても、フィリピンやタイやシンガポールが承認するかどうかは疑問である」「折に触れて、マレー語をより広い地理範囲での国際外交言語にするという情熱的な野心を耳にする。10年か20年前、マレー人政治家が国連で、短い演説をマレー語でする機会が与えられた時、マレー人共同体の中で歓喜が湧き上がった。その政治家はその日だけの国連訪問者であり、マレー語での演説は丁重に受けとめられたが、すぐに忘れ去られてしまった」「マレー語は高い文化を有するが、それはマレー世界に限定された中での話である。同様に、マレー語の広がりも、マレー地域に限られたものである。もし、マレー語話者が国連事務総長になったとしても、それがマレー語を国際外交言語にするという保証はない」「1970年代にインドネシアのAdam Malikというマレー語母語話者が、国連事務総長の地位を占めたことがある。しかし、彼は英語が最も流暢だったので、英語で執務した(注:国連事務総長ではなく、1966年頃の国連総会のインドネシア代表団の議長および1970年の国連特命全権公使ではないか)」


参考文献一覧に挙げたものにも、90年代に、マレー語をASEAN言語にするかどうか、またWawasan 2020をスローガンとしてマレー語使用領域をどこまで拡大させるかの議論があったようですが、当然のことながら、悲観論と野心論とがあり、決着はついていません。

 2005年3月25日付Bernama (英語版)には、「‘Bahasa’を保護しなければWawasan 2020までにマレー語は消滅するのではと、マレー語諸機関が危機感を募らせている」という記事がありました。(後記:BernamaではなくStar紙であり、教育大臣が危機感を表明したもの。K.T先生には、2006年7月6日付メールで添付記事を加えてお詫びと訂正)


 第三者的に見れば単なる笑い話ですが、推進者の立場に心を寄せるならば、こういう話が外国出版の論文にまで掲載されてしまうほど、マレー世界の中で交易語あるいはムスリム言語としてのマレー語の利便性と広がりを享受してきた人々の歴史を彷彿とさせると同時に、早く一人前として認められたいという焦りや危機感も感じられます。一方、外国をある程度知っている人にとっては、現実を直視しなさい、ということでしょう。  

≪注≫
・DBP(Dewan Bahasa dan Pustaka):マレーシアの政府系言語出版局(ただし、日本語での訳語は未統一のようである)
・MABBIM(Majlis Bahasa Brunei-Indonesia-Malaysia):ブルネイインドネシア・マレーシア三か国のマレー/インドネシア語の諸問題について研究・討議する会議

≪上記引用文献≫
・Asmah Haji Omar, 1982. Language and Society in Malaysia, Dewan Bahasa dan Pustaka/Kementerian Plajaran Malaysia, Kuala Lumpur.
・Asmah Haji Omar, 1998. Language planning and image building: the case of Malay in Malaysia, in International Journal of the Sociology of Language 130: Linguistic issues of Southeast Asia, Mouton de Gruyter, Berlin/New York, pp.49-65.
・Mead, Richard, 1988. Malaysia's National Language Policy and the Legal System, Monograph Series 30, Yale University Southeast Asia Studies, Connecticut, USA.