ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

類は友を呼ぶ?  マ日の比較雑感

いささか素人くさい分析ですが、思いつきで、(私の知る範囲内での)マレー社会と一昔前/今(?)の日本(名古屋)社会との類似点をあげるならば、次のような点に気づきます。

1. 社会の二重基準
2. 井の中の蛙
3. 他者の目を意識すること

1.については、「内と外」「本音と建前」に典型されるダブルスタンダードです。マレーシアには相当するフレーズ表現がないと思われるかもしれませんが、対外的に発信するメッセージと国内向けの実態とが乖離していることにおいては、似たようなものかもしれません。
マレーシアに関しては、非マレー人非ムスリムを抑圧ないしは差別ないしは放任しておきながら、「多民族多宗教のマレーシアは、平和共存し、経済的にも発展したモデルのムスリム国家です」と、マレー人政治家みずからが外国向けに公言することが多く、残念ながら過去のことになっていません。特に、宗教政策や言語政策などの面で、国連に加盟し、国連人権宣言にも署名しているのに、国内ではまったく逆の法判決が下されたり、イスラーム寄りの法改定がなされたりします。
かくいう日本も、えらそうな論評はできません。今読んでいる小池真一(著)『小澤征爾 音楽ひとりひとりの夕陽講談社+α新書(2003年)には、次のような箇所があります。

空しい二枚舌
音楽の素晴らしさは?という質問に対して、日本の音楽家たちは決まり文句のように言う。「音楽は世界共通です」と。でも、実際の活動が「世界は世界、日本は日本のままでいい」という「ダブルスタンダード二重基準)」なのだとしたら、その音楽がなんと空しく響くことか。
いや、事態はもっと悲劇的で滑稽かもしれない。
ダブルスタンダードは何も音楽だけではない、政治や経済や医療や教育、国際的スポーツ大会の名称を日本語と英語で使い分けることにいたるまで、たぶん日本の国民性だからしょうがないと笑う音楽家もいる。日本の音楽愛好者たちもダブルスタンダードに慣れきっていて、「今回は日本の演奏だからどうせ…」と「今度は“本場”の外国人だからやはり…」と期待度をくるくる切り替えている。まるでテレビのチャンネルのように。
このままでは、日本の音楽は世界から取り残されてしまうーーーそういう危機感が齋藤秀雄門下生に、小澤に、強い。
「日本にこれだけ音楽愛好家が増えて、オペラ愛好家が増えたのに、一つのスタンダードは外国からくるもの、もう一つは日本の団体がやるもの、これは明らかに鎖国と同じなんですよ。違うのは、ただどんどん輸入できること。これはお金があるからです。買うからです。買ってきたもので満足しているのは、まあ言ってみれば鎖国と同じですね」(小澤征爾大江健三郎著『同じ年に生まれて』中央公論新社
クラシック音楽の多様化」という扉を開いた音楽家として、「日本流の世界化」を問題にしている。
「日本に帰ってくると、『グローバル』とか、『世界共通の』とか、『インターナショナル』とか、『世界に羽ばたく』とか、当たり前のことがすごく目につく。ところが実際は、いろんな場面で、『日本には日本のやり方があるんだ』とか、『これが日本のやり方なんだ』とか、もうまるでそれと真っ向から違うようなことも、同じ人が平気で言う」(同)
ダブルスタンダードに甘んじていてはだめというのは、何も世界に置き去りにされないためだけではない
。(後略)(pp.53-54)

この部分を読めば、表面的には日本におけるクラシック音楽受容の一問題を描写しているように見えるのですが、よく考えてみると、マレーシアでも似たような話があるんです。
例えば、「マレーシアにはマレーシアのやり方がある」「グローバル化アメリカ化だ」と撥ねつけ、あたかもオリジナルのマレー式があるかのように語る一方で、実際には、アメリカに相当数のマレー人政府留学生を送り込んだり、本屋さんの本も輸入版がほとんどだったり、経済的にもかなりアメリカその他の融資を受けていたりするのです。また、宗教上も、都合のいい時には「多宗教」を利用しつつ、いざとなると「ここはイスラームの国だから」と、国連条項や世界宗教者会議での署名には、ムスリムのみが出てくるという事態が起こっています。

2.に関しては、はっきり言ってしまうと、「田舎者」「島国根性」ということでしょうね。マレー人の場合は、外来系ムスリムとの混血が上層部に多く、移民系も「大きなマイノリティ」として一定数居住していますから、本来は広く開かれた社会のはずなんです。でも実際には、マレー社会に限れば、村落も都市部も中間層が増え、高等教育の機会も多くなったにもかかわらず、非常に視野が狭くて世間知らず、という感じがします。
名古屋出身の私には、よくわかるんです、この閉鎖性。もともと、「大いなる田舎」と揶揄されていた頃から、「どうして名古屋がそう言われるのかわからない。別に暮らしに困っていないのに」と私も一時期ムキになって反論していたのですが、そういう態度そのものが、田舎者丸出しなんですね。世界は広くて大きいのに、狭い空間で満足しきって暮らしている名古屋人。満足するのはいいのですが、他を知らないので、自分たちが一番だと思っているところがはた迷惑、なんですね。

学校も名古屋、就職も名古屋、結婚も名古屋人同士。その子ども達も、同様に右に倣え。その延長で、「名古屋はこうなんですから」と、経済上のビジネスでも他者を排除する。結婚式のやり方も、口では「いえいえ、ウチは地味です」と言いながら、蓋を開けてみるとどえらく派手。しかも、結納をご近所にまで披露して婚家の相場を品定めするという…。他の土地の人にこの話をすると、皆大笑いします。「だから、名古屋人って嫌なんだよな」。
ですから、マレー人のことは、決して笑えたクチじゃありません。マレー人だって、1990年代までは、「自分たちはムラユ世界の中で、イスラームとマレーの慣習に従って平和に満足して暮らしていたのに、移民(pendatang)が来たから、我々の秩序が崩れたじゃないか。あの人たちには出て行ってもらいたい」と苦情を言っていたと日本の研究会でも現地でも聞きましたし、他にも同様の話を英語文献で読んだことがあります。「マレーシアがあそこまで発展したのは、一体誰のおかげなんですか」という問いが、なかなか正面切って出せないメンタリティがあるのです。

ご存じですか。マレー人の中から、十年に一回ぐらいの頻度で「マレー語をアセアン公用語にしよう」ばかりでなく、「マレー語を国連公用語に推進しよう」という主張が出されていることを。そこまで言うなら、キリスト教共同体のマレー語使用に妙な弾圧をかけ続けるというのも、まったく筋の通らない話です。確かに、国連関連の諸会議の記録は、マレー語にもインドネシア語にも翻訳されていて、そういう文書を見たことも何度かありますが、それとこれとは話が別です。

しかし、これとて同類の話が日本からも出てきました。慶応大学名誉教授の鈴木孝夫氏が、「日本は経済大国になったのだから、日本語を国連公用語にしよう」と息巻いていらしたのは、私の学生時代でした。今から思うと、「はあ、ご苦労様でした」という話ですが、当時は、それこそ本と新聞とテレビ・ラジオと大学の講義ぐらいしか、情報源がありませんでしたから、(そういう勇ましい考え方もあるんだな)と素直に思っていたところもなかったわけではありません。

それにしても、マレー語にも日本語にも「井の中の蛙 大海を知らず」(Seperti katak di bawah tempurung.)という諺があるのに、なんということでしょうか。

3. の「他者の目を意識」とは、面子とも関わることで、華人も強いですし、インド系もある面、複雑なプライドがあるようです。マレー人も「顔が大事」としばしば言われます。ただし、華人自身が「私たちはツラの皮が厚いから大丈夫」と言っている場合もあります。こう言えるところが、華人の強さでもあり、前進できる秘訣でもあるのでしょうが。
日本人も他者の目を意識するという点では、ひけをとりません。世界ジョークでも、「皆さん、そうされていますよ」というと、日本人はすぐさま同じ行動をとるという話がありますが、他の人がどうするかで自己の対応を決めるというパターンは、今でもそれほど変わっていないところもあるかもしれません。ただし、スポーツや芸術の世界などでは、若い層から相当の個性派実力派が出てきて、それが国際的にも十分通用するようなので、頼もしい限りです。

マレーシアに滞在していた1990年代頃、「私たちの国をどう思いますか」「言語政策について、どう考えますか」などと、華人やインド系の人々から頻繁に聞かれました。「興味深いです」「おもしろいです」と答える度に、がっかりしたような顔をされ、かえって戸惑った覚えがあります。
一方、マレー人のタクシー運転手さんなどは、「どうですか、マレーシアは」という問いかけに同じ返事をすると、にこにことうれしそうに「だろう?マレーシアは本当に良い所だよ。地震はないし、食べ物もおいしくてたくさんあるし、政府もしっかりしているし。インドネシア見てごらん。自然災害は多いし、暴動や騒動も多いし、貧しい人が多いしね」と、同国人の他民族がどう感じながら暮らしているかに、まったく気づこうともしないような返事が多かったようです。
それから、当時よく聞いた話に、「マレー人は着るものにお金をかけ、華人は食べるものにお金をかける」という表現もありました。確かにマレー人女性は、色鮮やかなバジュ・クロンを何着も持ち、トドンと呼ばれるスカーフの巻き方も非常におしゃれですが、華人の場合は、おしゃれよりも機能性を重視し、なりふり構わず働きまくっていた印象があります。
こうしてみると、他者の目を意識するという点一つとっても、その価値観や行動様式にかなり幅があると言えそうです。

(参考)
清水義範(著)『改訂決定版 笑説 大名古屋語辞典角川文庫1994年
早坂隆(著)『世界の日本人ジョーク集中公新書ラクレ202 (2006/2007年25版