ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

昔の経験が今をつくる

以前も書いたことですが、小学校3年生から新聞投稿を始めました。もっとも、大人向けの地方紙や全国紙への投稿は、大学に入ってからです。毎日新聞社発行の『毎日小学生新聞』と『毎日中学生新聞』に作文やお習字を送って、時々掲載していただき、しばしば全校朝礼や教室で表彰されていました。もちろんこれは、私の自発的希望による行動ではなく、親の誘導によるものです。
ただし、よかったのは、そのために学校でいじめられたことは一度もないし、かといって、先生や友達からチヤホヤされることもなかったということです。非常におおらかな時代でした。自分のことが新聞に載ったとしても、世間には、新聞そのものを読まなかったり、読んでも掲載を見過ごしたりする人も多いのだと子ども時代に気づいたのは、とてもよい経験でした。
「だから無責任に何でも発言すればよい」というのではなく、「誰かの目に留まったので掲載に至ったのだ」というプロセスを知ることで、人は一人ではないこと、オリジナリティの尊重、多様な表現方法などを自然と学んだと思います。
もう一つよかったことは、いわゆる舞台度胸というのか、公的に発言することを恐れない習慣が身に付いたということです。新聞投稿の他にも、小学校5,6年のクラスでよい先生に恵まれたために、毎回、授業では真っ先に挙手して発言するのが楽しみでした。人の意見をよく聞きながら、誰のまねでもない自分独自の意見を出すのが、おもしろくて仕方がありませんでした。今から振り返っても、のびのびとした教育を受けられたと思います。
社会人になってからは、「人の気づかない点によく気がつくね」とか「普通ならば感じないことも、敏感に感じ取るところがあるね」と、目上の方達に時々ほめられました。時にはそれがアダになることがなきにしもあらずでしたが、多分、小学校時代の経験から、自然にそうなったのだろうと思います。
例えるならば、音楽の才能のある子どもが、楽器を習い始めて2年ほどでオーケストラと共演したり、小学生の頃から海外の演奏活動に触れさせたりする昨今の教育方針と似ているところがあるのかもしれません。そういう習慣が小さい頃からあれば、物おじせずに舞台に立てるのだそうです。
早期教育というと弊害ばかり取り沙汰されがちですが、それは親のエゴや見栄で押しつけるからであって、もし本人の能力や意志に沿うならば、必ずしも悪いことばかりではないと思います。それがわかるのは、実際にはもっと後年になってからなのですが。

ところで、昨日書いたマレーシア華人の政界デビューの件ですが、ご本人から直後にメールが届きました。「君の言う通り、NGOで活動していた頃には、自分はアポリティカルだった。でも、最近はどうにもこうにも、このままでは社会がどうなってしまうんだろうという事件や問題が多過ぎると思っていたところ、某政党から話がきた。二か月じっくりと考えた後に、出馬することにしたんだ。本当はやりたくない。自分は‘躊躇した政治家’なんだ。だけど、黙っていたら世の中は変わらない。務めは果たさねば」とのこと。もともと、社会福祉ホームをつくろうとして、多国籍企業でのビジネスを早期退職して、頑張っていた方だったのです。ホームがどうなったのかわかりませんが、彼なりの決意だったのでしょう。「だから、自分が悪い道に逸れないよう、ちゃんと日本からも見張っていてくれよ」と。
かつては、マレーシア華人は概して経済的志向が強く、政治的意識は比較的低い、というような専門的分析が、人口に膾炙していました。ところが近年ではさすがに、「そういう分析は現実と異なるのでないか」と言われるようになって久しいです。
ただ、私の知る狭い範囲では、マレーシア華人の政治家といっても、名望家になりたいとか、尊敬されたいという欲望よりも、いわゆるコミュニティの利害代弁者と調整役のような印象を受けます。「この国に生まれた以上、マレー人とうまくやっていかなければ食べていけない。本当は政治には関わりたくない。ビジネスをしている方が絶対に楽しいけれど、父を見ていると放っておけないから、決心したんだ。マレーシアのこと、少しでも知っていたなら、わかるでしょう?下手すると、殺されるかもしれない。そういう国なんだ」と聞いたこともあります。
確かに、マレーシアの場合、こちら立てればあちら立たず、なので、何事も譲歩と妥協と調整の繰り返しです。いくら元は海峡華人や移民労働者といっても、既に4世から6世もいるほど、あの土地に根付いたマレーシア人です。ですから、決して海外ネットワークばかり見ているのではなく、マレー語を身に着け、マレー人の心性を知り、人と情報を見抜く敏い目を備えていなければ、生きていけないという心構えが小さい頃から備わっているようです。
この点で、私自身もずいぶん鍛えられましたし、(ここの人達には到底かなわないなあ)と思うこともしばしばです。1990年代初頭には、なかなか聞いてもらえませんでしたが、最近はさすがに、グローバル化時代ですので、こういう私なりの小さな経験もちゃんと意味を持っていたのだということがわかり、うれしいです。

最後に、昨日借りてきたCDのリストを列挙して、今日の分は締めとします。
・“J.S.Bach, Die Kunst der Fugue, BWV.1080/ Musikalisches Opfer, BWV.1079, Stuttgart Chamber Orchestra, Karl Münchinger” 1966/1977, The Decca Record Company Limited, London. (「フーガの技法」「音楽の捧げ物」)
・“Georg Fredrich Händel, Water Music/Music for the Royal Fireworks” Orchestre de Chambre Jean-Francois Paillard, Ensemble D’Instruments a vent et Percussion, Jean-Francois Paillard, 1962/1973, ERATO. (「水上の音楽(ハレ版)」「王宮の花火の音楽」)
・“Rimsky-Korsakov, Symphonies No.1, No.2 ≫Antar≪, No.3, Sadko≫Tableau musical≪, Mlada: Procession, State Symphony Orchestra of Russia, Evgeny Svetlanov, 1995, BMG. (「リムスキー=コルサコフ交響曲全集」)