ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

チャップリン自伝

1月6日の夜、いつものように「N響アワー」を見た後、「チャップリンの秘書は日本人だった」と題する「ETV特集」を続けて見入ってしまいました。チャップリンといえば、犬養毅氏とも昵懇だったらしいことを、犬養道子氏が書いていらっしゃったのを思い出します。そして、私自身は、ずっと前に、ヒトラーを皮肉った「独裁者」を白黒番組で見たことが、強烈な印象として残っています。

そこで早速、近所の図書館から、『チャップリン自伝(上)若き日々中野好夫(訳)新潮文庫1966/1981/1993年31刷)を借りてきました。時間に多少余裕のある今こそ、チャップリンの悲喜劇の根底にある思想は何だったのか、知りたいと思ったからです。

ページをパラパラとめくってみて…いやあ、改めて驚きました。本当に、本当に、私は知らなかったのですが、チャップリンもまた、貧しい暮らしの中で、お母さんの語る福音書の物語に感化された人だったようです。

・・・ある夕方の出来事だった。わたしは熱を出して寝ていたが、その日は快方に向っていた。シドニイは夜学に行っており、部屋には母と二人きりだった。もう夕方に近く、母は窓を背にして坐りながら、例によって、あの読んでは演じてみせるという独特の方法で、新約聖書の物語、とりわけ貧者や子供に対するキリストの慈愛の話をしてくれていた。わたしが病気だというので、やはり多少は興奮でもしていたのだろうか、このときほど鮮かな、そして感動的なキリストの姿を、わたしはまだ見たこともなければ聞いたこともない。寛容でおおらかなキリストの心、罪を犯して群衆に石で打たれようという女の話を、母は真に迫って話してくれた。群衆に向ってキリストがいうのである。「汝らのうち罪なきもの、まず石にて打て」と。
あたりがだんだん暗くなっても、母はただ一度明りをつけに立っただけで、あとはまたイエスが病人たちの心に信仰を目ざめさせた話だの、彼らがイエスの衣の裾に触っただけで、たちまち病気がなおった話だのを、いつまでもいつまでも話つづけるのだった。
だが、イエスは祭司長やパリサイ人の憎しみと嫉妬を買い、捉えられてポンテオ・ピラトの前へ連れ出される。が、少しも取り乱したり、威厳を失ったりはしない。ピラトは、手を洗いながら(母はこの場面をきわめてリアルに演じてみせた)、「この男に罪はない」と呟く。人々はイエスを裸にして笞で打ち、茨の冠をかぶせて嘲ったり、唾を吐きかけたりする。そして、「ユダヤ人の王万歳!」などとはやしたてるのである。
そのうちに、語りつづける母の眼に涙があふれた。磔刑用の十字架を運ぶのを手伝ったシモンに、イエスが心の底から感謝のまなざしを送った話や、イエスとともに磔にされた盗賊が、死の間際に悔い改めて許しを求めたのに対して、イエスが「汝、今日より我とともにパラダイスにあらん」と答えられたという話などが、つぎつぎとつづいた。さらに十字架の上から母マリアを見おろしながら、「女よ、視よ、汝の子なり」と語りかけ、いよいよ死の苦痛にさいなまされながら、「わが神、わが神、なんぞ我を見棄てたまいし?」と叫ぶくだりになると、母もわたしも声をあげて泣いていた。
「おわかりか?」母はいった。「イエスさまはとても人間的な方だったんだよ。わたしたちとまったく同じように、疑いのために苦しまれたのだからね」
母の話に感動のあまり、わたしはその夜のうちにでも死んで、イエスのもとへ行ってしまいたいような気持になった。しかし、母はわたしよりも冷静だった。「イエスさまはね、おまえがまず生きて、この世の運命を全うすることをお望みなのだよ」と、説いて聞かせた。その夜、母はオークリイ・ストリートの暗い地階の部屋で、生れてはじめて知る暖かい灯をわたしの胸にともしてくれた。その灯とは、文学や演劇にもっとも偉大で豊かな主題を与えつづけてきたもの、すなわち愛、憐れみ、そして人間の心だった。
(pp. 27-29)


その後のチャップリンの人生は、成功してから、女性関係などで華やかな面もありました。しかし、日系人一世として苦労していたコウノ氏(高野虎市氏)を秘書として雇い、まるで友人のように平等に接していたところなどを考えると、このような少年時代の経験が大きく影響していることは確かでしょう。そして、あの勇気ある風刺劇なども、単に極貧暮らしの見返しとしての演じ方ではなかった理由が、ここに見出せるようにも思います。

2008年1月8日付『マレーシアキニ』の投稿記事には、あるムスリマが、カトリック週刊新聞『ヘラルド』禁止の本当の理由は、神の名の問題ではなく、キリスト教ムスリムに対して宣教活動をしているからだ、と主張していました(Fatima Idris "‘Allah' ban and The Joshua Project" 8 January 2008)。これとて何ら初耳ではなく、2007年12月15日付の「ユーリの部屋」でも書いたように、ずっと前からそういうグループがあることは、既に知られていることです。また、ご丁寧にも日本の大学の研究会で、ムスリムから同じ主張を聞かされました(参考:2008年1月9付Lily's Room (Part 2)http://pub.ne.jp/itunalily))。
私はそのようなグループに属する者ではありません。しかし、公平に考えて、ムスリムキリスト教宣教活動をするのが御法度ならば、非ムスリムイスラームを勧めることも同時にやめる可能性も考えていただきたいものです。そうでなければ、全く一方通行の話です。少なくともマレーシアでは、非ムスリムイスラーム改宗の件数の方が、ムスリムイスラーム放棄の事例より、比較にならないほど多いのですから。
それに、信じるかどうかは別として、チャップリンのように、苦しい生活の中で福音書に触れたことで、人に恨みも抱かず、むしろ、笑いとペーソスを通じて、人々に希望と励ましを与えるような仕事を選び、世界中の人々を勇気づけ、考えさせる役者へと成長したことの意味について、ムスリムの人々も、じっくりと思い巡らしていただきたいと思います。
イスラームでも、クルアーンとは別の位置づけにあるものの、福音書を‘Injil’と呼び、条件付きながらも大切にされているはずです。さらに、‘Nabi Isa’として、イエスムスリムの間でとても尊敬されていると聞いています。
マレーシア人口2600万人のうち、読者が多く見積もっても約5万人しかいない小さな週刊新聞(一部は半島部で1リンギ(約30-35円)・サバ・サラワクで1.5リンギ)を、限られた予算と人材で一生懸命作っている人々に対して、自分達の宗教イスラームを守るためという理由から繰り返し抑圧を続けることが、果たして尊敬するイーサの教えに沿ったものであるかどうか、マレー当局の担当者もよく考えてくださるならと思います。