ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(15)

・第187号1979年(昭和54年)7月
「学ぶよろこびについて」(“かもめ”第99号(7月17日発行))(pp.5-6)
幼ないころからこうした素朴な知識欲がいろいろな分野で満たされて次第に知性が成長して行くのです。このような成長は単に知識が量的に増すだけでなく、個々の知識に連関性や継続性が備わりますと、全体として質的なはたらき、すなわち学問へと発展するものです。つねに未知の新しいものを求めて、それが与えられ、あるいは指し示されるよろこびをいつまでも持ちつづけたいものです。(中略)
未知のものを求めまた与えられるよろこびは未来に向かっていますが、過去に与えられたものの蓄積が再生されるよろこびも大切です。この未来と過去とにつながるふたつのよろこびに囲まれますと、現在学ぶよろこびがその広さと深さを増して来ます。学びは義務でなく特権であることがこの角度からもわかると思います。

・第188号1979年(昭和54年)8月「永遠への輿論」(p.1)
ただ、職場その他聖書を知らない人が多いところで信仰のことをいい、あるいは聖書にもとづく判断を実践しようとしますと、抵抗ないし迫害にあうものです。神の無条件の愛を受けて真理の力を示されるものは、新しい倫理感覚をもってこの世の悪に対処しますから、それがこの世で妨げられるのは当然です。
そのようなとき、同信の友の祈りや慰めに力づけられることもありますが、何よりも聖書に記される具体的な事実の数々と、キリスト教成立以来現代にまでつづく歴史が励ましてくれます。20世紀になっても世界人口が40億近い中で信徒は10億足らずで少数であり、仮に全人類の投票が行われればキリスト教は否決されます。しかし聖書が真理を語るという事実は動きません。職場その他で少数意見であっても失望するに足りません。
限られたこの世の輿論に振り回されずに、事実と歴史にもとづく永遠への輿論とともに歩みましょう。そして、反対者へは愛をもって対応しましょう。

・第192号1979年(昭和54年)12月
「神学の科学性(下)−聖書学を中心にー」第186号(6月号)につづく(pp.5-10)
聖書学は、聖書の本文が形としては人間のことばと文字によって書かれているという事実、すなわち聖書の人間的な面に対して批判的な態度をとる。(中略)この場合批判的すなわち良心的ということができる。
さらに、このような科学的操作によって整えられた現在の聖書の本文は、その操作の土台になる写本の数といい、古い写本が原文に時代的に近いことといい、古代のいろいろな書物の中で最も信頼すべきものであることも立証しうる。写本が多いのは聖書が多くの人に読まれたからであり、現在に至るまで聖書が世界中で最も大きな読者層をもつ書物であることにつながる。(中略)
このような経緯をふまえて、各福音書とその各部分の形や内容が文献学的に明らかにされてきたとともに、福音書が全体として史実性に豊(ママ)み、またイエスの死と復活の意味を明示することの学的裏付けも確かになってくる。(中略)
このように、第1に正典も人間の作であるがゆえに完全ではなく、第2に正典外にも正典的な資料があること、第3に正典内部にも互いの批判があること、を見ると、結局文字と言語という人間に与えられた文化現象が形であって完全でなく、完全なのはその指向する神であることを聖書全体が物語っているといいうる。文字は殺し霊は生かす(Ⅱコリ3:6)ということが文字の集りである聖書にもあてはまり、聖書の示す霊が大切であること、すなわち人間性の有限と神の無限とを聖書学は学的に示すものである。
したがって、正典至上主義も逐語霊感説も聖書の精神から遠いことが学的に明らかである。(中略)
何ゆえ聖書学を研究するか、は何ゆえ聖書を学問的に読むか、である。信仰は学問以上あるいは以外のことであり、信仰のことを書いた聖書はただ信ずべきものとして学問を排除すべきであろうか。(中略)聖書学の動機にはこのような理解への意欲という面がある。そしてさらにこの意欲の動機として愛がはたらくとき大きな力になるものである。(中略)
最も真剣に聖書に向かうのは生命と心身の平安や健康に問題を持つ人々であり、人間の限界をこえた信仰の次元を求める人々である。この状況は人によって異なるが、聖書の中に真理をたずねるとき、それを広い意味で学問的に明らかにしようとの意欲が生まれるものである。このような聖書への関心ないし愛の中に科学性に富んだ操作の基盤がある。(中略)
このような聖書に接するに至る経緯は読者それぞれに異なるけれども、救いを求めるという動機が聖書を学ぶに当たっての本筋であり、ここに聖書の成立の動機と相通ずるものがある。
以上述べたように、聖書学への真の動機は聖書の成立への動機と切り離しえない。この両方の動機が結びつくとき、正しい理解への方向が示される。このことは科学と矛盾せず、むしろ科学性に富むものである。(中略)
聖書の精神は禁欲的でないがゆえに芸術を排除せず、むしろそれを支えまた推進するものであり、科学としての芸術学の方向を示すものである。それは芸術に接することのできない人々にも芸術以上のものを与えようとする精神である。聖書は性格、天分、素質、趣味などの人的な面を生かしつつ、それらに恵まれないものに生命そのものの大きな力を与えるものである。(中略)
また、聖書を理解せず、反論を加える人々への護教の動機も重要である。護教は科学的であるときに力をもつことはいうまでもない。
聖書学の動機としては、それが職業となった場合が考えられるが、そこに自己種族の保存のための欲望がはたらいて科学とは反対の方向へ行く危険のあることは歴史の示すとおりである。(中略)
諸科学を通じて真理論が取り上げられているが、それは古くから聖書が重要視しているものである。すなわち、真理は単に事実性や合理性でなく、永遠不変のものであることを銘記すべきである。(中略)
神の奥義であるキリストのうちに知恵と知識のすべてが隠されていること(コロ2:2以下)を科学的に究めることが、聖書学のさらに神学の課題である。(おわり)
〔附註〕真理については本誌第68,69,84号の“真理愛の拠点”を参照されたい。
「ヨーロッパ通信 1979(Ⅴ)」(pp.12-13)
・多くの資料を綿密に分類して検討したいい講演でした。
・面白い例を挙げて研究を発表しました。
・十数人の人と距てなく議論していますと、本当に聖書の学問は面白いものだと感じました。これが自分のためばかりでなく、聖書の真理を求める人のためにも役立つと思いますと、面白さも倍加します。
・午後の発表はI. トマス氏の1511-1620年のウェールズ語新約聖書についてで、そのころの歴史の動きを説明しつつ、訳の用語について宗教改革的な“忠実”と文芸復興的な“豊富”との問題に触れました。素直に原文に従うことと、表現に親しみを持たせることという二つの矛盾した方向は訳者を常に悩ますものです。これがウェールズ語訳を中心に論ぜられたのは聖書の訳にたずさわるものとして興味深いことでした。
・ラムゼイ司教夫妻が日本滞在の思い出を楽しそうに大勢の前で話してくれたのがいちばんうれしく思いました。ただ教会や聖書学の微妙な点については発言がなかなか慎重でした。
「書斎だより」(p.14)
・停電がたびたびある国の人口の90%がイスラム教徒なので無理をしてもメッカへ行く人が年に数万あるということ(7月8日,日曜)

・第194号1980年(昭和55年)2月「書斎だより」(p.8)
・日本基督教協議会の信仰職制委員会に出席した。エキュメニズムの訳語として20年来主張してきた“全教”のことも話した。およそ訳語に理想的なものはないが、簡単明りょうで他から区別しやすければ充分である。もっとよい訳が他にあったら教えてくださいと長年いい続けている(9月17日).

(引用終)

*第194号1980年(昭和55年)2月の『聖書愛読』発行を最後に、前田護郎先生はお亡くなりになりました。私にとって、「ユーリの部屋」への転写入力の作業では、とてもよい時間を過ごさせていただきました。ご愛読ありがとうございました。