ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(10)

しばらくお休みしていたシリーズ、再開いたします。毎回、前田護郎先生シリーズを楽しみにリンクしてくださっていた皆様、お待たせいたしました。

数日前、教文館からのメールマガジンに、また前田護郎先生の選集『聖書の思想と言語』が紹介されていました。学生時代に、先生の『ことばと聖書岩波書店1963)を夢中になって読みました。その考え方に基づいて、マレーシア赴任後に気づいた問題意識から、縮小応用編としてマレーシアの聖書問題やマレー語聖書翻訳を調べ始めたのですが、くどくどと書き連ねたように、こんなに茨の道だったとは!マレー語は簡単な言語だと言われますけれども、マレー・イスラーム文化圏内で、ムスリム当局からの度重なる抑圧や干渉に耐えながら、きちんと専門的に正確に聖書に翻訳しようとなれば、これは一大事業です。また、問題は、一見簡単そうに見える物事の中に秘められている概念を、どこまで見抜き、深めていくかという点だろうとも思います。
では、久しぶりに続きをどうぞ。

第160号1977年(昭和52年)4月「聖霊論と聖書論」(pp.4-7)
(1976年9月29日(水) 日本基督教学会(会場 東京女子大学)での研究発表の要旨)
1. キリスト教学のあらゆる分野で聖書の重要性が増しつつある。(中略)聖書は教会分裂以前のキリスト教成立当初の清純な伝統を反映し、またそれ以後各地に宣教が行なわれる際、それぞれの地域における種々な伝統をあるいは批判し、あるいは純粋化して福音進展に寄与させる方向を示唆するものである。(中略)聖書学に隣接する古代学、考古学、人類学、心理学、社会科学、医学等が聖書の建設的解釈に寄与する多くの資料を提供してきたことも聖書の位置を高めている。(中略)また、学的に解釈された聖書の種々な面が多くの学問領域への発言権を増しつつある現状にも注目すべきである。
2. 聖書の重視は聖書至上主義とは異なる。キリスト教ユダヤ教イスラームのような経典教ではない。(中略)したがって人間に理解できるものがあるとともに、形としては人間的な不完全さを含有するものである。それゆえ正文批判その他学的な操作が必要になる。(中略)
3. しかし聖書で文字は至上視されていない。イエスユダヤ教の聖書至上主義と戦いつつ聖書の精神の成就を目ざしたのである。
4. 聖書はイエス・キリストを指向し、また証しするものであるが、三位一体的体系において聖書論は第2位格の神の子の部でなく、第3位格の聖霊の部に置かれるのが妥当である(M.ケーラー).
5. 神の属性Hypostasisの観点からいうと、霊、ことば、知恵等のうち旧新約を通じて霊が最も重きをなしている。
6. 聖書は全体として理論的というよりもむしろ歴史的である。抽象的でなく具体的である。そして過去の記述にとどまらず現在と未来とに結びつく創造論的かつ終末論的な救済史の形をとっている。史実にもとづく論述であるが、単なる史実の羅列ではなく、史実の選択と解釈がなされており、具体的な例証によって救済が継続性と普遍性に富んだ形で叙述されている。
7. 旧約から新約にかけて、聖書はあらゆる意味で最低のところにあるものの救いをいう。その救いは十字架を中心とする。これは人間の置かれた状況において基準としての力を発揮するものであり、それは聖霊のはたらきということができる。
8. キリスト教史を通じて聖書的な人々が三位一体を重んずる例が多い。ユスティノス、アラグスチヌス、ダマスコのヨハネ、ダンテ、宗教改革者たち、パスカルらの名を挙げることができる。わが内村鑑三も然りである。

・第163号1977年(昭和52年)7月
「妨げの中の学び」(p.1)
研究のことを思うにつけ、外からの妨げと自らの無力とが予定をおくらせているのに気づきます。このことは50年近く前に聖書にはじめて接して精神的に物ごころがつきはじめてから今日までつづいています。(中略)そのたびに自らの無力を示され、追いつめられたところで苦しみながら研究をつづけてきたのでした。そして不思議なことに、苦境に陥ったときに、それまでわからなかった聖書の箇所がわかったり、思いがけない真理に接したりしまして、学問そのものへの関心も深まってきました。今も学ぶよろこびがこみ上げてきます。(中略)研究の形や量はあちこち欠陥があっても、命が自らに接する人にも与えられるならばそれがなによりです。さらに、苦しみながら研究をつづけますと、職場や家庭で苦しみながら聖書を学ぶ人たちと同じ平信徒の世界に生きることができ、建築家すなわち平信徒の救い主やテント作りの使徒に導かれる恩恵に浴することができます。
今まで与えられたものを感謝し、またこれからも新しいものが与えられるよう祈りつつ、静かな歩みをつづけたく思います。
「新しい出発の日にー入学式式辞―」(p.5-9)
より大切なことは謙虚に学ぶ心構えであります。この心構えを一生持ちつづけたいものと思います。
第1に、よい先生に接することです。
第2に、よい友だちを持つことです。
第3に、よい本を手に入れることです。いろいろな教科の本も大切ですが、それ以上に、世界史に出てくるような古典的名著に親しむことは、単に知識を豊かにするばかりでなく、人間としてのあり方を学び、また心に深いものを与えてくれます。わたくし自身にはそれらの中で聖書がいちばん大切ですが、聖書に親しみますと真理への愛着が深まりますので、他のよい書物による勉強の意欲も増してきます。いわゆるベスト・セラーには当てにならないものがあります。また、常識から見て無価値有害な本は遠ざけましょう。
高い文化を持つ国は清潔であります。
日ごとに祈る姿勢で学びの道を進みましょう。
共に手をつなぎ、共に語り合う気持で祈りながら真理を求めましょう。

・第166号1977年(昭和52年)10月「祈りの支え」(p.1)

旅行が自分の利益や楽しみのためでないために、途中でどんなことが起こっても、それが一生の終りになってもいいという覚悟で出かけるのですが、それが自分の献身の決意でなく、友人の温かい理解と援助に支えられるものであり、さらにそれを支えたもう神の愛のあらわれであると思います。(中略)
しかし、このように危険や困難を感じて心身が刺激されるとき以外の比較的平常な場合にも、祈りの支えが力を発揮します。それは、すじ違いのことを辞退したり、荷が勝ちすぎるときに予定を変えたりして慎重な態度をとるように導かれるからです。

・第168号1977年(昭和52年)12月
「インド・タイ通信1977(Ⅲ)」(pp.9-11)
6時から“聖書的唯一神教”と題して話しました。なにしろ今日の事態なので外からの人が少なかったのですが、職員学生が60人ほど集まって熱心に聞いてくれました。何人かの教授が最前列にすわってわたくしの拙い講義をノートしていたのが印象的でした。これは欧米でも経験したことですが、いい大学では外国の同僚を温かく迎えてその学説に耳を傾ける謙虚な雰囲気があります。(中略)
あとで活発な質問や意見が出ましたが、富は分かち貧しさは結ぶWealth divides and poverty unites.ということを中心とするわたくしの発言には皆が拍手してくれました。(中略)
南インドは比較的よかったとはいえ、200年近いヨーロッパ人の植民主義に苦しんだ人にはキリスト教の形も教義も重荷として受け取られた面があるので、アジア人らしい福音の把握について真剣な態度があります。
「書斎だより」(p.11)
・朝礼で夏休みの日記をすすめた。休み中にかぎらず、1行でもいいからその日のことを書いておくと必ず役立つ。文章も上達するし、書きたくないようなことをしなくなるという収穫もある。まめに家計簿をつける人に赤字なしというのと相通じる。(7月4日)
スウェーデンでは日本赤軍のリーダーらしい某大学助教授が逮捕されたという。文明社会よどこへ行くといいたくなる。(7月15日)
キプロス大統領マカリオス大司教がなくなった。独立後のギリシア系とトルコ系の人々の争いに対処してよく指導者としてのつとめを果たした功績は大きい。(8月3日)
・病床の師友のためひとり林の中で祈った。近くの先達から自作の野菜が贈られてきた。神のお恵みは信ずる人を通じて具体化する(8月4日).
インドネシアで奉仕しようとするある姉妹に対して、もっと温かくあってほしいと思った。愛を実践する人を愛をもって送りたい(8月14日,日曜).
(引用終)