ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(14)

昨日のラジオドイツ語講座応用編では、ニュルンベルクのクリスマス市の話ついでに、レープクーヘン(Lebkuchen)が出てきました。私には、この有名なドイツのお菓子にまつわる、おもしろい経験があります。
1988年12月のクリスマス前のことです。以前にも書きましたが、当時、大学院生だった私は、住み込みチューターとして、名古屋大学学生寮で一人暮らしをしていました。そこへ、マンハイム近郊の街に住む一歳年下の双子のドイツ人ペンフレンドの片割れBirgitから、突然、半径12センチほどの大きさのレープクーヘンが、航空小包で届いたのです!別に頼んだわけでもありませんし、手紙にレープクーヘンのことを書いたわけでもありません。なぜ、急にそんな上等なものが贈られてきたのか、皆目検討もつかないまま、結局は、インドとオーストラリアの留学生達を誘って、紅茶を飲みながら、おいしく食べてしまいました。
多分、Birgitにしてみたら、まだ冷戦末期ですから、ちょっとした思いつきで、極東の同世代のペンフレンドに宛てて、お小遣いをはたいて買ってくれたのでしょう。お礼に何を贈ったらいいだろうとあれこれ考えたのですが、ドイツ人の口に合いそうなよい干菓子が思いつかなかったのと、下手なものを送って、途中で傷んで食あたりでも起こされたら、国際問題に発展しかねない、私の好きな塩せんべいだって、到着した時に割れていたら、せっかくの友情にもヒビが入るかもしれない、などと、大袈裟なことを勝手に考えてしまい、無難が一番と、丁重なお礼状をドイツ語で認めるのみに留めました。
今思えば、ドイツ人の留学生達とも親しくしていたのだから、ちょっと聞いてみればよかったのに、後の祭り、ですね。
まあ、Birgitの家には、学部3年の春休みに、二泊三日で泊まらせていただきましたので、お互いの性格などは、ある程度わかっていたのです。その時、ギムナジウムで国語(ドイツ語)と歴史を教えているというお父様には、出張中とのことでお目にかかれませんでした。娘達が講義のために、ハイデルベルク大学に出かけると、昼間は、外国語はフランス語しか話せないというお母様と私の二人きりになってしまったので、私もドイツ語で一生懸命喋ってみました。
買い物に町へ二人で連れ立ち、お店の前で私が「これ、おいしそうですね」(Das sieht aber lecker aus.)とか何とか言う度に、お母様が自慢気に「日本から来たのです。娘のペンフレンドなのよ」と言って回り、お店の人々はどこでも、ニコニコ愛想良くおまけしてくださいました。それに、週に二度、社会人のための夜間公開講座で英語を学んでいるというお母様が、「あなたも来る?」と尋ねてきた時には、ドイツ人がどのように英語を教え、勉強しているかを見るには絶好のチャンスだと思い、「はいはい、喜んでご一緒します!」といそいそとついて行きました。大学生のお兄さんがアルバイトで教えている講座でしたが、(へえ、ドイツ人って、もっと英語ができるかと思っていたのに、やっぱりここはヨーロッパ大陸なんだ。イギリスじゃないんだ)とびっくりしたり、いい歳した大人が真面目に一生懸命、英語を学んでいる様子に、(日本とやっぱり違う。生涯学習ってこのことなんだ)と感心したりしました。その後、日本も似たような講座が充実してきましたが、私の記憶では、当時はまだそれほど、といった感じでしたから。感心しておもしろがっている私をよそ目に、帰り道、お母様が「どう?いい先生だったでしょう。私ね、うちの娘のどちらかに、あの先生をお婿さん候補にどうかと思っているんだけど。どう思う?」と聞いてこられました。思わず、唖然としました。年頃の娘を持つ世のお母さん達は、いつだって本当の動機はそこにあるんでしょうか。
今から思い返しても、愛情深い、おもしろいお母様でした。けれども、娘達の躾には大変厳しく、私が何事にも「ダンケ シェーン、ダンケ シェーン」と、何とかの一つ覚えのように繰り返していたら、「ほら、この日本のお嬢さんを見なさい。ちゃんとお礼が言えるでしょ!」と、注意していました。びっくりしたのは、反抗一つせず、彼女達も実に素直に、「ダンケ」を言い始めたことです。これが、前田護郎先生のおっしゃったドイツ流躾かと、しみじみ思いました。とても懐かしい思い出です。
その後、マレーシア派遣が決定したことをBirgitに手紙で伝えると、「なんでなの?日本のようなアジアで最も発展したハイテクの国に育ったのに、どうして、そんな遅れた国に行くのよ!もっといい仕事あるんじゃない?」と返事が来ました。当時の私も、若気の至りというのか、「アジア地域の一員として、私はマレーシアの人々のお役に立ちたいのです。日本が本当に先進国だとしたら、ましてやアジアの途上国を若いうちに知る必要があります。特に、第二次世界大戦中のこともありますから」と大マジメに書き送りました。何とも殊勝な日本の私、ですね。

私が結婚してしばらくしたら、またもや突然、Birgitからプリクラ写真付きの手紙が送られてきました。どうして新住所を知ったのかわかりませんが、多分、ドイツ滞在中に出会った双子の友人でジャーナリスト志望のAnnetteから聞いたのでしょう。就職難で大学を出てもいい仕事が見つからないらしく、「私も結婚したのよ。今はこんな顔しているの。うちで暇にしているから、あんた(Du)も暇なら、またお手紙ちょうだいね」などと、昔よりもずっと簡単なドイツ語で書いてありました。こっちはそれどころじゃなかったので、かくかくしかじかと説明したところ、文通はそれっきりになってしまいました。
それにしても、当時のことを思い出すと、何だかノスタルジックな気分になりますね。今は何でもインターネットである程度の情報収集ができますし、世界中どこにいてもメールで瞬時に連絡してしまいますが、あの頃は、時間と距離というものが、珍しさも手伝って友情をはぐくんでいてくれたのですから。
さて、ここでぐっと格調を高めて、続きをお読みください。

・第185号1979年(昭和54年)6月
「学用患者」(p.1)
難病奇病の場合、おかげでいい講義ができましたとか新しい論文がまとまりましたとかいわれて、医局員から逆にお礼をいわれて退院する人もあるそうです。学用患者はモルモット扱いされる筋合いのものではなく、真理の探究と学術の進歩に寄与貢献するため、治すものと治されるものとが協力する形と考えたく思います。病に苦しみ、人から嘲けられる病者にとって、自分の体が活用されて他の人々の健康への道が学的に明らかにされることはよろこびではありませんか。(後略)
「神学の科学性(上)−聖書学を中心にー」(1978年9月28日(木)日本基督教学会(会場 東海大学・平塚校舎)での研究発表の補正)(pp.8-14)
神学の科学性あるいは学術性は教義学が取り扱うべきものであるが、聖書学、キリスト教史学、実践神学等神学の全分野および宗教哲学等の隣接学科にとっても重要な課題である。聖書学にとっては、神学の科学性が問題視されるならば神学から分離独立すべきか、あるいは聖書学こそ神学の科学性への基盤を与えるものではないか、聖書解釈に神学的・信仰的と科学的と二通りあるか、等のことが考慮の対象になる。(中略)
19世紀以来発達した宗教学が諸宗教を同列に置き、特定の宗教を至上視する神学を非科学的とみなす面があったこともこのような背景の一環である。(中略)
神学が教会の指導者の養成のための学問であるという現実から、神学が他の諸科学から分離されて一種の聖域が作られる場合がある。また、神学は神への信仰を中心とするがゆえに科学あるいは学問一般に消極的であり、いわゆる信仰的な面だけに神学の価値を認める人もある。(中略)神学は神についての学問であるが、それにたずさわるのは人間であり、その意味で神学も罪のある人間の営みであることを無視すべきではない。(中略)
今世紀になって盛んになりはじめたエキュメニズム(全教)の動きは、従来分裂をつづけてきた教会を反省しつつ諸教会の一致を目指しているが、たとえ諸教会の一致は実現せずとも、神学の研究とキリスト教的な愛の実践(福祉、教育、医療等)では一致しうるという具体的な線が出ている。その指導精神としては諸教会成立以前の清純な信仰を示す聖書が最も重んぜられている。新教徒はもとより、ローマ・カトリック教会ギリシア正教会の人々の間にも広く聖書が読まれ、聖書の翻訳と頒布、聖書学の振興のためには教派をこえた全教的な協力がなされつつある。この事実が神学のあり方についても刺激を与えていることは否定できない。教義以前に生まれた聖書が教義をこえるエクレシアを指向するといえよう。理論あるいは仮説が実験によって立証されて科学性を増す場合が多いが、理論としての神学に対して聖書の全教的重視と普及という現実は何を物語るであろうか。(中略)
キリスト教史学が歴史学、考古学と共通するところが多く、実践神学も教育学、心理学、精神医学、社会学、宗教学、言語学等と密に関係する。ここに挙げた諸学も神学諸分野の業績が活用される場合が多々ある。このような諸学との相互関係に神学の科学性を見ることもできる。これはきわめて全般的な見方であるけれども、神学が他学科と対話の姿勢にあるとき、その科学性が問われ、あるいは明らかになることは否定できない。(中略)教義学、キリスト教史学等と聖書学との関係はその最たるものである。これについて、教義学の研究に聖書が引用され、教会史を聖書解釈の歴史と見る(エーベリンク)などの例を挙げることができる。(中略)
新しい神学も諸学の成果をふまえつつ創造、生命、人間関係、貧困、病苦等の諸問題を学際的に考慮してこそ真の科学性に接近しるうものである。そして、ここに列挙した諸問題は聖書の中で重要な位置を占めるものである。
聖書学は旧新約聖書という具体的に存在する文献を研究対象とする科学である。旧約は主にヘブライ語、新約はギリシア語で書かれており、それらの本文の原形を正文批判学によって求め、その成果として原形に最も近いとされる本文の意味を言語学的に研究し、その背景を古代史学、考古学等の成果をふまえて明らかにし、聖書に描かれる現象や象徴を宗教学の示す類例によって説明するなど、いずれも科学的操作である。聖書学の方法は文献学および解釈学と共通する。そして、聖書の各部分の内容、成立、相互関係、著者問題等を扱う聖書概論は旧約新約を通じて形においては文学史と変わりないといいうる。(中略)
このように、聖書学は形と方法において文献学その他の諸科学と共通するが、それによって明確化される意味内容は人間の営みとしての科学以上のものである。聖書学が神学の一部であり、神学の他の諸分野ともこれらの点で共通するということもできる。
キリスト教史も一般の歴史と共通するが、同時に歴史以上のものを含んでいる。歴史家は資料を並べて写す機械ではなく、立場を明らかにし、資料に関心を持ち、選択し、解釈して叙述するものである。キリスト教最初の歴史家はエウセビウスではなく第3福音書使徒行伝の著者ルカであること(M.ディベリウス)は今日の学界で認められているが、他の福音書記者もこの意味で歴史家である。
この点から見ても十字架上のイエスの死という史実と死の3日目から把握されはじめた復活信仰の聖書にもとづく科学的研究の意味は大きい。科学は信仰を説明しえないが、信仰を抱くに至った経緯やその背景を説明する。また、科学は科学の限界を認めるところに科学性があらわれることはいうまでもない。(中略)
このように、聖書の解釈に当たって種々な角度から学的に研究がなされることは聖書学の科学性を示すものである。また、このような学的操作によって形としての本文の中に含まれる意味内容がますます明確にされるものである。その結論あるいは示唆を自らの心のこととして受け入れるか否かは別として、聖書学が科学的操作をなすものであり、その成果が聖書の本文の表現するものを示すことは何びとにも認められよう。
「書斎だより」(p.15)
・聖書には忙しさに苦しむとよくわかる面がある(3月7日).
・聖書愛読の1978年合本ができた。15年分無事にそろったのを両手に抱いて感謝の祈りをした(3月8日).
・若い日に聖書を学ぶとどこか他の人と違う底力があるのは不思議である(3月16日).
・娘は家事に使われやすいが、それはいいことであるし、一日じゅう家事の必要はないから、じゅうぶん勉強できる、と励ました(3月17日).
・それから東大聖書研究会の卒業生送別会に出席した。ヒルティのすすめるような、音楽を通じての信仰への導きが話題に上った(3月20日).

(引用終)