ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

1980年代のドイツでの思い出 

昔のペンフレンドBirgitの話が出たついでに、もう少し(西)ドイツでの思い出を綴ってみましょう。
Birgitと双子のAnnetteが、その友人のAnnette(名前が一緒なのは偶然だそうです。そう言えば、ドレスデンのペンフレンドの名前もAnnetteでした)と一緒に、ハイデルベルク城まで私を連れて行きたいと言って、ご自慢の自家用車を運転してくれました。アウトバーンを突っ走って、お城まで無事辿り着いたのはよかったのですが、帰り道が大変。突然、エンストしてしまったのです。三人とも、何やらごちゃごちゃと方言混じりのドイツ語でしばらく相談していましたが、結局はどうしようもなく、「危険だから」との結論に至って、車をそのまま道端に乗り捨て同然に止めたまま、列車で戻って来ました。遠来の珍客の私としては、車の免許も持っていないので、なすすべもなく、三人の後をついて来ただけでした。
ところが、帰宅後、お母様の大雷。「なんですって!」と叫んだかと思うと、いきなり、Birgitの頬をピシャリとひっぱたたきました。こういう時のドイツ人のお母さんって、すごいんですよ。目の前に外国人の私がいるのに、全く容赦というものをしません。私の見るところ、誰が悪いわけでもなく、単に車のメインテナンス不足だっただけのように思うのですが。多分、お母様は私達のことを心配した余り、娘にビンタをくらったんでしょうね。
それはともかくとして、ハイデルベルク城では楽しい思いをしました。中年の男性ドイツ人ガイドが、私を見てから、友人の方のAnnetteに向かって「あなたもドイツ人じゃないんですか」という尋ね方をしたので、おもしろく思っていたら、彼女はきっぱりと、「私はドイツ女性です!」と答えました。もっとおもしろかったです。
それに、私と似たような日本人の女子大生の一人が、私を見つけて、「すみません、日本の方ですか。あのう、トイレを探しているんですが、どこにあるか、聞いてもらえません?」と頼んできました。(それぐらいのドイツ語、覚えてから入国したらどうなんですか)と言いたいのを我慢して、友人Annetteに聞くと、「あそこよ」と簡単に教えてもらえました。にわかドイツ語通訳にでもなったような、いい気分でした!!
言語の面では、もう一つの思い出があります。日本語では男性言葉と女性言葉が多少異なるという点に興味を持ったBirgitが、「どのように違うのか教えて」と何度も言いました。残念ながら、当時はどこまで説明すればいいのかの加減がわからず、だんだん面倒になったので、「手っ取り早くは、あなたが日本語を勉強すればいいんじゃない」などと、素っ気ない返事をしてしまいました。
それから、娘達用に買ったというアップライトのピアノが居間に置いてありました。お母様に聞くと、「誰も弾かないのよ。飾ってあるだけ」と、これもまた素っ気ない返事。「あなた、弾けるの?」「ええ、少しだけですけれども」「じゃあ、弾いてみて」と言われたので、三人の前で、バッハのインベンションとシンフォニアの簡単な曲を二、三披露してみました。(ドイツでドイツ人の前でバッハを弾くなんて、すごい度胸してるんだ、私…)と思っていたら、「ああ、この曲、どっかで聴いたことあるかもしれない」などとお母様が言い出したので、真意をつかみかね、何と答えたらいいのかわからなくなって、戸惑ってしまいました。
こうしてみると、当時だったからこそ与えられた経験だと思いますね。若かったから、許されたのでしょう。今なら、とてもそんな心臓に毛の生えたことはできません。歳をとるとは、そういうことです。つまり、人生では、その時でなければならない機縁というものがあるのだと思うのです。