ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

最近の聖書翻訳の傾向

昨晩、日本語版の『スタディ・バイブル』(2006年)が日本聖書協会から届きました。1万円以上もする高価なものですが、マレーシアでも、このマレー語版を作るという話があるそうなので、少なくとも日本語版ぐらいは持っていなければと、ようやく入手する決心をしました。
実際のところは、使ってみなければわからないのでしょうが、う〜ん、お値段の割にはちょっとがっかり、かな。参考文献表を見て、合点がいきました。知っている文献がかなり入っていたからです。例えば、岩波の旧・新約聖書翻訳委員会版、サンパウロフランシスコ会聖書翻訳版、教文館の『聖書外典偽典』(1979年!)『バイブルアトラス』(1999年)『パノラマバイブル』(2005年)などです。それに、原版は“The Learning Bible-Contemporary English Version”で、「忠実な翻訳」であるように心がけたのだそうです。換言すれば、英語が読める人なら必要ない、ということになります。
最近、各国の聖書協会が相互協力体制にあり、作業もコンピュータ化しているためか、最新の聖書学の知見をもとに一致統合、といえば聞こえはいいものの、一面、聖書翻訳がどこか機械的に平板化されたような印象があります。昔の困難な手作業の方が、「これ一筋」に全身全霊を注いだ人の存在もあり、また、当時はまだ主流だったキリスト教的価値観に対して、有力階層からの支援や人材や資金が集まったということもあり、現在から見れば多少の間違いがあっても、いや、その間違いこそに、むしろ味があったようにも感じられます。「聖書は神のことば」だと、最初から定義づけてしまうと、宣教行為と文書翻訳活動とが混同されがちなので、いささかややこしくなります。優秀な人の手になる翻訳は、どの言語であっても洗練されていて、信仰重視の人の手になる翻訳は、熱心だけれども、翻訳そのものに関しては、どこか素人臭さが抜けきれないようにも思われます。
その点、日本語の聖書翻訳は、明治時代のプロテスタント受容者が漢学や蘭学の素養を持つ階層だったこともあり、かなりの水準に至ることができた、と聞いたことがあります。その観点からするなら、現在の「すべての人々にわかりやすく」という意図は、学問的には、水準を下げていることになるのかもしれません。
一方で、受容者層が一定の集団を形成していなければ、つまり、人数がある程度揃わなければ、理解者も発信者も限られてくるので、いわゆる一般向け宣伝も必要なのでしょう。
1804年に英国で始まった「誰でも自由に自言語で聖書を読めるように」という運動は、果たして今、日本においてどこまで有効なのでしょうか。自分の言葉で読める喜び以前に、ドイツ語文献や英語文献やフランス語文献で既に読めてしまうのであれば、改めて日本語で繰り返す必要はないでしょう。また、原語のヘブライ語ギリシャ語が読めたとしても、日本語訳がお粗末であれば、これまたがっかりということになります。
日本でキリスト教が少数派なのは、長い伝統文化を持つ古い国で、新来者として明らかに土着化に失敗したことの証左です。どうも二番煎じであって、真のオリジナルではないために、借りもの文化の装いから抜け切れていないからだろうと思います。なるほど一見、キリスト教のネットワークは「国際的」です。諸外国との連携でも、「クリスチャン同士」で、特に教団教派の関係があれば、なおさら有利に見えます。さまざまな世界情報に通じているようにも見えます。しかし、問題はその質であり中身です。
中国でのキリスト教伝道に従事した宣教師達は、西洋文化の伝達者ではあっても、真の意味での中国学や各分野の専門家ではなかったために、平信徒的で素人風だったとも聞いたことがあります。ただ、キリスト教の価値観でいけば、宣教師達は困難な状況の中で何とか熱心にキリスト教の福音を伝えようとしたと、その献身性が称えられる傾向にあるのではないでしょうか。
この辺りの究明には、やはり世俗的環境の中で、批判的に実証研究がなされる必要性があるのかもしれません。教派神学や教職聖職などの立場を持つと、専門性が深まり高まる反面、ある意味では、証拠づけられる現実があったとしても物が言えなくなることもあるのではないかと思います。
それから、教会内ではもちろん聖典ですが、教会外では聖書は一つの宗教文書であり、その他にも多くの優れた古典的な聖典があります。ある程度の相対的観点を踏まえた上での聖書翻訳でなければ、伝達しようとするあまり、どこか一方通行に終わってしまいはしないでしょうか。例えば、日本で聖書翻訳に携わる人々が、どれほど仏典研究に通じていらっしゃるでしょうか。ハリストス正教会では、独自の翻訳と祈祷を持っていらっしゃるそうですが、門外漢の私の目には、その翻訳文書は独特の格調が保たれていて、もっと広く宣伝されてもよさそうなのに、と感じられます。
正教会は一般に、民族主義的であると言われます。政治動向と結びつきがちなので、民族主義は、文脈によって肯定的にも否定的にも論じられますが、条件付きながらも、地元に根付くためには必要な要件の一つではないかと思います。
マレーシアには、いわゆる南回りのキリスト教である、マルトマ教会やシリア正教会が存在しています。この中から、指導者層や専門職の人々が、個人レベルで輩出されているそうです。それに、ムスリム側も、西洋由来のキリスト教会とは別待遇をするようです。また、最近、コプト教会がマレーシア教会協議会に加入したという連絡が公式に来ました。是非とも、次の訪問時には、これらの少数派教会についても、参与観察と共に資料収集をしてみたいものだと意気込んでいます。