ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マンモグラフィー検査

昨日のお昼には、マングラフィー検査に出かけました。時間毎に4人のグループ分けをし、それぞれの受診者に対して10分ほどの丁寧なビデオ説明が保健師さんからあった後、検査バスに乗り込み、着替えて検査。いつも思うのですが、X線技師の健康が気になります。かなり浴びているでしょうから。今回はもちろん女性技師が担当されましたが、左右計4カ所の撮影のため、持ち上げたり寄せたりして、結構大変そうで(って自分の体なのに?)、とても申し訳なく思います。これじゃあ、力仕事ですよ。その後は医師の触診。「これなら大丈夫ですね」と言われました。今は何でもデジタルなので、結果がすぐにコンピュータ画像を見せてもらえ、まずはきれいだとわかりました。主人がその昔、関わっていた仕事の意味が、こういう点でもよくわかります。ご苦労さまです、ありがとう!そして、お医者さん。今の時代は本当に大変です。下手すると訴えられますし…。

私の家系には、乳ガン患者は一人もいませんが、マレーシアで知り合った女性Rさんが、ちょうど今の私と同じ歳の時、卵巣ガンで亡くなりました。Rさんはシングルで、二つ目の修士号の最中でした。今なら当然、博士号に相当するレベルでしょうね。日本軍政の関係でマレーシアに関心を持ち、当時の日本語教育について調べていました。志半ばで亡くなったのですが、私は全くそのことを知らず、年賀状が来ないので変だなあと思っていたら、後でお姉さんから丁重な薄墨のお手紙をいただき、驚愕しました。
マラヤ大学のカンティーンでRさんと中華ラーメンを一緒に食べた時の、ある予感が的中して、本当にそれが最後の思い出となってしまったのです。「予感」というのは、食堂でおしゃべりした後、「他に図書館ってありません?」と聞かれたので、「あちらの方向ですけど」と答えた途端、Rさんは、挨拶もそこそこに、腰まで伸ばした長い三つ編みを一本なびかせて、走り去って行ってしまいました。(なんで、そんなに急いで行っちゃうの?)と姿が見えなくなるまで茫然と突っ立っていましたが、その時なぜか、(もしかしてこれが最後かもしれない)とぼんやり感じました。それが実現してしまったのです。
当時のおしゃべりは、少し覚えています。「マレーシアのこと、好きなんだけど、各民族が互いに悪口を言い合うのが嫌だわね。それさえなければねぇ」という、よくある話もしました。その他に、共通の知り合いのAさんという日本女性の話に及んだ時、Rさんがクリスチャンになるよう祈っているのだ、とAさんが私に言ったことを伝えると、Rさんは、「いいわ。それは遠慮しとく」と笑いながら手を振りました。話はそれだけなので、私もすぐに次の話題に移りました。
ところが、人ってわからないものです。お姉さんのお手紙には、ガン告知を受けた後、療法で一時は回復したものの、また悪化した時、進んでホスピスに入りたいと望み、きちんと自分の人生に折り合いと整理をつけて、安らかに逝かれたと書かれてありました。
Aさんの祈りは、このような形できかれたのです。