ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(5)

最近、この「ユーリの部屋」のアクセス数が上がってきました。キーワード検索のおかげもあるのでしょうが、前田護郎先生がかつてズバリズバリと直言されていた内容が、どこかで多くの方々の心に届いているのかもしれないと思っています。以下にご紹介するものも、なかなかエスプリがきいていて、茶目っ気とユーモアもたっぷりです。今でも、こういう良心の塊のような大学の先生がもっと増えてほしいのですけれども。あ、私の置かれた環境が貧しかっただけ、あるいは私の目が節穴だけなのかもしれないですね。失礼!

・第79号 1970年(昭和45年)7月「思いあたること」(p.1)
罪の意識なしで自らを神格化する人々の構成する社会では、絶対と相対、全体と部分の区別もなく、子弟も甘やかし放題ですから、ちょっと入学試験に合格すると天下を取ったような錯覚に陥いる(ママ)のでしょう。その反面、幻滅が暗い挫折感や精神障害をおこすのです。幻滅は自己神化による感謝の欠如です。

・第81号 1970年(昭和45年)9月
「愛の暗黙」(p.1)
しかし、何十年と聖書を読みつづけるものには別の面があります。人間的な努力で修養をして円くなるのではなく、日常接する人々や世の中の動きを観察する目が与えられて静かになるのです。人が尊いと思うものに価値がなく、朽ちないで永遠に残るもの、すなわち人を生かす愛の力が判断の中心になります。そこに神の義の法則が昔も今も変わらずはたらいていることがだんだんわかるのです。
このような目で若い人々と共に学びますと、彼らを災いから守ることができ、怒らねばならぬ不祥事を未然に防ぐこともできます。それに、一時つまずく人があっても時がたてば事がはっきりして解決するという確かさが身についてきます。その時の長さは若いころとはちがってだんだん短く感じられるものです。
「ヨーロッパ通信 1970(Ⅱ)」(p.7-11)
会長ウィデングレン教授の演説は、今日いわゆる宗教に対する批判的な風潮が世界的であり、その反面宗教的なものがはびこってきただけに諸現象の科学的研究が必要である、という会員多数の意見を代表するものでした。(中略)
わたくしの国際感覚その他に井の中の蛙式のジャーナリズムとちがう点があるのは、聖書によって教えられる社会原則が信頼する外国の友人たちの忌憚なき意見交換によって説明されるからです。(中略)自分で戦争放棄といってあぐらをかいていても世の中はそれほど簡単でないことが日本の知識人にどれほどわかっているのでしょうか。(中略)学会で多くを学んで日本の友人におみやげを持って帰るためにメモの整理などをしました。聖書の勉強に、広い視野の方法が実り多いものであることはこれからもますます明らかになるでしょう。(後略)
「書斎だより」(p.12)
生まれてはじめて紀元前の古典を読んだ学生の感想に接した−詩に対する基礎的な知識の不足、自然の美しさに対する想像力の貧困、ことばとことばの生み出す共同体の生み出す微妙なニュアンスに対する感受性の薄弱さ…映像文化の及ぼした影響でもあろうし、文明に心のゆとりを奪われた現代人の哀れな姿かも知れない…―若い日にこの反省をしるう人はさいわいである。見る人間から、読み、考え、祈る人間へ!と叫びたい。(4月7日)

・第82号 1970年(昭和45年)10月
「学問と聖書Ⅰ」(pp.6-11)(1970年5月13日と20日 駒場にて 東大基督者連合会主催新入生歓迎講演会)
(前略)40歳ぐらいになると学徒として行きづまる人がわたくしの同僚の中にもあります。その反面、若いときから聖書に親しんだ人は、そこに苦しみもありますが全体として心に平安があることをわたくしは知っています。(中略)しかし、自らの力に頼っている学問と、聖書の精神による学問、すなわち神を信じながらする学問とは違います。(中略)19世紀前後の乱れた社会に倫理的な反省を迫ったマルクスの貢献は高く評価されるべきです。阿片的な宗教になっていたキリスト教会への批判もそのまま受けるべき面があります。(後略)
「書斎だより」(p.12)
ある神学校の教員が研究室へ来ているので、1 古典ギリシア語を学ぶと聖書のギリシア語がよくわかる。 2 聖書学のいい研究書には古典ギリシア語の資料が用いてある。 3 日本でも素人で古典ギリシア語を勉強する人が増してきた。それで、もし君がわからねば君の弟子に直訴する、といった(5月21日).

・第83号 1970年(昭和45年)11月「ヨーロッパ通信 1970(Ⅲ)」(p.13)
バスの中で数名の学者と、神学と宗教学の関係などについて論じました。聖書以外のギリシア語を学ぶと聖書のギリシア語がよくわかるように、キリスト教以外の諸資料を調べると立体的な聖書解釈ができること、現代ではいわゆる宗教でない動きの中に宗教的な要素が多いからそれを学的に整頓する必要がある、などわたくしの持論に賛成してくれる人も少なからずありました。

・第84号 1970年(昭和45年)12月「書斎だより」(p.13)
未信者の教官も学生も、キリスト教の知識なしではヨーロッパは理解しえない、という点で同意するが、本式にキリスト教の勉強と取り組む人が少ないところに日本の学界の盲点がある(9月19日)

・第93号 1971年(昭和46年)9月「協力の問題点」(p.1)
文化と福音とを混同せず、率直に救いの恩恵を受けましょう。隠れた神とともに歩みつつキリストの御名をかかげないで黙々と研究や社会奉仕に献身するところに本当の祝福が伴うものです。

(引用終)