ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(4)

カトリック系幼稚園で聖書の話を外典も含めて聞いて育った私は、高校生の頃から、カトリックプロテスタントを問わず、キリスト教信者の文筆家の書いたものを読むようになりました。他の書き手の文章と読み比べていくうちに、自然に感じたことが二つあります。
もちろん人によりますし、皆が皆同じというわけではないのですが、一つには、日本人あるいは日本語の書き手にしては、話題が広くて同じ話の繰り返しが少なく、国際情勢にも明るいなあ、ということでした。もう一つは、文章に率直さと誠実さと透明な静謐さがあふれ、落ち着いた明るさが滲み出ていることでした。同じ頃に読んでいた、思春期から大人の女性向けの本などには、ものによりますが、友人関係上の嫉妬心やボーイフレンドの取り合い、嫁姑の陰険な悩みや夫との問題、借金、浮気、酒乱、病苦など、暗くて悪意が含まれていたり、刹那的だったり、人生に対してネガティヴな印象を与えたりする傾向をうすうす感じていたからです。この違いの元は何だろう、と考えながら読んでいました。
もちろん、今の私にはわかります。そして、一生懸命に理由を探り求めていた十代の自分を懐かしく思い出します。
前田先生の『聖書愛読』も、内容に全く重複がないとは申しませんが、さまざまな話題が取り上げられていて、飽きがこないのが特徴です。とかく学者の書く文章は、晦渋難解だったり、「あなた、これ、わかる?」と言わんばかりに高見から見下ろすようなものがなきにしもあらずだったりしますが、前田先生の文章は、高度なのに平明な文章で、批判的内容を含むものであっても、温かい落ち着きがあります。しかも、トピックは海外事情から国内情勢および日常生活まで幅広いのです。では、続きをどうぞ。

・第50号 1968年(昭和43年)2月「第50号の感想」(p.5-6)
帰朝以来大学の内外でした講義の草稿がありますが、これも皆新しく勉強し直してから書きますのでゆっくり構える姿勢が必要です。外国から最近の資料を取寄せては発展させて行きますし、旧約新約を通ずる聖書の思想の総合的な研究ですから、そう急には進みません。(中略)色々な講演のノートもそれぞれのテーマで聖書の理解に資するためにまとめています。(中略)今のところ静かに書斎で研究をつづけてはひとり学ぶ友に書き送りたく思います。(中略)外国人との信頼関係がなくては日本の将来は危いことは明らかですが、神への信仰による長年の交りこそその信頼の基本であることの一つの証しになり得ればと思います。(中略)現代の色々な思想を審くのではなくて、率直に聖書の真理を述べますと、諸思想の純粋な面で対話が出来ますので、そのようなこともまとめてみたいと思っています。

・第58号 1968年(昭和43年)10月「書斎だより」(p.13-15)
“勉強盛りの若い先生になるべく小人数(ママ)の学生の演習(セミナー)を持たせて、学生が先生の勉強の成果に親しく触れ得るようにしていただき度く(ママ)思います。演習は先生と学生の双方が赤面しつつ学んで行くところです。大教室での概論は(老)大家に頼み、出来れば一般公開にして入場料を取れば学生の月謝も安くなりましょう…”と答えた。(9月23日)
“若い頃に…教育と研究に専念できた時代が好ましく思える…昨今のように、若い教授や助教授や、それから助手副手の末端に至るまで、会議、会議と追いまくられている状態では、これで研究する時間が充分にあるのかと疑うほどである…ひそかにわが国の大学の将来に心を痛めている人も少なくないであろう…”とあるが、この点同感である。週刊誌などではこういう発言はあまり歓迎されないらしい。真の民主主義は指導者を選んで委せることであって、皆が何にでも口を出すのは衆寓政治である。指導者の選び方のセンスがないのも危険である。(10月24日)

・第60号 1968年(昭和43年)12月「大陸」(p.13)
(1951年5月5日春風学寮寮祭における講話の筆記を補正したもの)
(前略)ヨーロッパの大陸では(中略)何処の国の大学を出ていても実力さえあれば重要な地位につけ、また在学中一国内は勿論他国の大学への転学が自由で、自分のつきたいと思う教授のいる所で勉強出来るようになっております。明治時代には何処の藩の出でなければ出世が出来ないという妙なことがありましたが、今でも学閥とかいう珍無類の日本名物があります。結局これは自分の国だけ、村だけ、学校だけ、家だけ、自分自身だけが中心になって色々なことが考えられているため、つまり人間というものの無力さ、大陸の中にひとり立って見てわかるように永遠の長さと宇宙の広さに比べると微生物のような人間の姿がわかっていないからではないでしょうか。

・第61号 1969年(昭和44年)1月
「真理を受けるもの」(p.1)
ヨーロッパの大学で老教授が若い同僚の講義に出たり、白髪の社会人が教室へ帰って学生と討議するのは当たりまえのこととされています。老いも若きも真理の前に謙虚であれば、そこに人生と社会を豊かにする学問が達成されるわけです。(中略)知識に振り回されての問題山積のこの頃、急がば回れ、わたくしも若い友とともにこのような聖書の真理を受けて静かに進みたく思います。
「書斎だより」(p.13)
序にE.シュタムラーの“教会なしのプロテスタント”という本も買った。“教会ゆえに悩む人のための本”と序文にある。行き詰まりの教会に愛想をつかして福音そのものを求める気風は今や全世界的になりつつある。時が迫ったことを感ぜざるを得ない。(12月20日

・第71号 1969年(昭和44年)11月「書斎だより」(p.7)
日本聖書協会の理事会に出席した。万国博を利用して聖書頒布をすることのはらむ危険について警告したが、どれだけ理解されただろうか。キリスト教の歴史や現状についての節度ある説明はよかろうが、大勢人が集まるからといって聖書をすぐひろめるのはどうか。(5月19日)

・第72号 1969年(昭和44年)12月「聖名濫唱を避けて」(p.1)
キリストの御名やキリスト教主義による病院や学校にこのごろ問題が多いのも、ひとつにはあまりに政治情勢に影響されたこと、今ひとつには主の御名をみだりに唱えないようにとの十戒(出20: 7)に違反していることです。このふたつには根本において文化と福音との混同という共通点があります。文化的な形をよくして勢力を張るために政治と妥協し、主の御名を濫用して文化的なものを大きくしようとするからです。
(引用終)