ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

牧師の質の低下ということ(2)

1年半以上も前のことです。ある教会の礼拝説教で、牧師が初っぱなから次のことを講壇で言われました。「車の運転をしていた時、『ホサナ』という言葉の意味を小学生の娘に聞かれて困りました。辞書がない!娘は教会学校で子ども賛美歌を歌いながら、『ホサナ』とは魚の名前のことかな、と思っていたようです。その場では、『主を賛美せよ』じゃないかな、と返事しておきました。帰ってから本で調べると、それは『ハレルヤ』であって、『ホサナ』は…」。

皆さん、特にクリスチャンの方は、これを聞いてどう思われますか。別に、神学部卒業したての、新米牧師ではないのですよ。かわいい娘さんですね、と思われますか?あるいは、「人をさばいてはいけない」とおっしゃいますか?この牧師の意図をあえて善意に解釈すれば、「こういう私でも、神さまは牧師として立ててくださっているのです。皆さんも、教会やキリスト教に敷居を感じなくても良いですよ」というつもりだったのかもしれません。

ちなみに、「ホサナ」とは、福音書のイエスエルサレム入場に関する箇所に出てくる表現で、「主よ救いたまえ」という意味です。棕櫚の日などでも有名ですし、「ホサナ教会」という教会もあるぐらいです。

この牧師は私に、「聖書学のことは、私はよく知りません。学者さんは説を打ち立てることで食べているんですから。大事なのは、知識ではなく信仰です」とおっしゃいました。神学修士号までお持ちなのですが、基礎的知識も欠けたままの「信仰」とは、一体何なのでしょうか。「説教は神のことばの解き明かしであり、たとえどんな牧師から語られようとも、聖書のことばが含まれている限り、信仰をもって受けとめる時、神のことばとなる」などという文章を、聖書釈義の本で読んだことがあります。ただ、正直なところ、上記の説教を教会で聞いた時には、信仰の醸成以前に、やる気が失せてくるような脱力感や失望感しかありませんでした。

しかし、その牧師は、別の日に講壇からこうも言われたのです。「妻が言ってくれました。あんたはやることやったのだから、あとは神様に任せればいい、と」。けれどもそれは、無責任というか、神任せ(?)に過ぎないのではと感じてしまいました。高齢化しているとはいえ、理知的でしっかりした方が多く、大学名誉教授も何人かいらした教会なので、牧師と教会員のコントラストが非常に印象的でした。

ところで、10月23日に、財団法人キリスト教文書センターから、『言葉が伝える豊かな心―本を読もう』(『本のひろば第593号 2007年特別号)という冊子が無料で送られてきました。財団法人キリスト教文書センター設立40周年記念事業の一環だそうです。

松居直氏(1926年京都生。同志社大学法学部卒。福音館書店創業。日本国際児童図書評議会JBBY)会長)と加藤常昭氏(1929年ハルビン生。東京大学文学部卒。東京神学大学修士課程修了。東京神学大学教授。ハイデルベルク大学客員教授日本基督教団鎌倉雪ノ下教会隠退牧師。「説教塾」主宰)の対談に、教文館社長の渡部満氏が司会として関わっていらっしゃいます。

活字が大きく読みやすいのですが、何と言っても、加藤常昭先生のおっしゃっていることが、豊かな経験知と深い学識に基づくものであるため、痛快で抜群におもしろいです。一度、2006年の国際聖書フォーラムで加藤常昭先生のご講義を聴講しましたが、その時は体調が芳しくないとのことでした。しかし、この対談時には、また元気を取り戻されたようで、端々に、これからの日本のキリスト教を抜本的に改革し前進させなければという使命感が溢れていて、よい刺激を受けました。

以下に、牧師や神学生への叱咤激励の言葉として、感銘を受けたり、示唆されたりした箇所を、抜き書きと箇条書きにします。発言はお三方ですが、特に明記しません。また、敬体と常体を原文から少し変更した部分がありますが、その旨ご了承いただければと思います。

・二〇人か三〇人ぐらいの小さな会衆にむかって厳しい言葉を語るということにどういう意味があるのだろうか (p. 37)
・言葉によって心が捉えられるとか、魂がゆさぶられるという経験を「語られる説教」を通じてしたということは、私にとってひじょうに大きな経験だった(p.38)
・どうしてキリスト教出版と言われるものの中からすぐれたマンガが出てこないのか。(p. 45)
・読み取れない人には含みのある言葉で説教してもダメなのかな(p.55)
・ヨーロッパの国語教育ではまず詩を暗誦することがとても大事。すぐれた詩を覚えさせる。聖書の言葉もよく覚えている。賛美歌なども賛美歌集がなくたって歌えるように身についている。(p. 60)
・昔と比べると牧師さんが本を買わなくなった。購買力が弱くなっている。昔は教会でよく読書会などしていて、信徒の間でもキリスト教の本を読んで学ぶ機会が多かった (p. 61)
・(『本のひろば』の書評は)推奨できる本しか引き受けないのが第一原則。「ほんとに読んでほしい」と思って書く。「そんな議論は他でやったらいいのに」というような学問上の異説を唱えてみたり、間違いを指摘したり。そうではなくて、読ませないといけない。(p. 64)
・「自分たちの教会は高齢者ばかりで」と嘆く伝道者に、「それは間違ってる。今こそ高齢者のために心を尽くして伝道することを考えなさい」と言う。ある教会でそういう話をして、高齢者の働きを積極的に説いたら、俄然高齢者が元気を出して、引退したような人が毎日のように教会に来て働いたりして「教勢が上がった」と礼状をもらったことがある。(p. 64-5)
東京神学大学の学生なんかを見ていても本を買わない (p.68)
・神学生なんかに、「まず自分のライブラリーを作れ」と言うんですが、ケータイにはお金を使うけれども本は買わないんだなあ。最終的に資格が取れればいいと。(p.68-69)
・ある教派の牧師でかなり年配の方から手紙がきて、「注解書を読むのがあんなに楽しいこととは露知らなかった」と。(p. 71)
・われわれ牧師の世界でもマニュアル化してきているところがある。牧師のサラリーマン化。(p. 72)
・よく若い人たちに、「説教している人間が自分の説教を面白がっていなければダメだよ」と言います。今は簡単にテープに録れるから、翌日でも落ち着いたところで自分の説教を聞き直しなさいという話を学生にすると、「へぇっ、自分の説教をまた聞かなければいけないんですか」と言う。私は、「君が、また聞かなければいけないかって閉口するような話をいつも聞かされている人たちがいるんだよ」と言います。(p. 73-74)
・説教に代表されるような「教会のことば」の貧しさ (p. 74)
・正直言って、プロテスタントの人たちのなかに言葉の重さを測ることを知っている人たちが少ないという気がします。牧師がそうです。牧師の語る言葉が軽いんです。しかし、自分の言葉の軽さに気付かない。プロテスタント教会はこの重量感のある言葉を失いつつあるのではないかと思う。(p. 78)
・牧師というのは自分の語る言葉に命が懸かっているわけです。聴いている人たちの「永遠の命」の問題ですからね。死を乗り越える言葉を語るというのは、これはそんなに簡単なことではない。それだけで言葉に重量感が出てくるはずなんです。(p. 82)
・説教というのは自分の言葉でしなければいけないから、自分の言葉でみことばを語れるように、自分のことばを見つけろ。(p. 83)
・時には、「君、それでも牧師か。自分の教会のことをちっとも考えてないじゃないか」とか言います。(p. 84)
・「自分の言葉で」「原稿を読むな」原稿を読まなくても身についていないといけない。そこまでやらないといけない。(p. 85)
・言葉についてそれだけ綿密にきちんと考えることを要求し、訓練し、教育する (p. 88)
・しかし牧師たちがね、読んだことがなかったことが分かったんです。ちょっとそれは余りにもひどいのじゃないかなと思った。(p. 92)
・日本語の賛美歌の歌詞がなかなか生まれない(p. 92)
・聖書の解釈、インタープリテーションにもイマジネーションがないとダメだ (p. 94)
・今、聖書学の世界でもかつてほどに文献学的に、史料的に、批判的にテキストを読むというより、イマジネーションをもって聖書のテキストを読む、そして説教をいわば物語として語ることに力点が置かれるようになってきているのも、やはり「理詰めの世界」の限界を知りはじめているということだと思う(p. 96-7)
・ドイツでも今、教会の礼拝の出席者が激減している。テレビで説教を聴いている人は多い。自分の教会の牧師よりもいい説教が聴ける。(p.101-102)
・これはやっぱり教会の責任。私は牧師たちに、「あなたがたは言葉の専門家なのだから、専門家らしくやりなさい」と言っている。そこから鍛えなおさなければいけない。(p. 103)

以上です。加藤常昭先生には、ますます闊達に我々を厳しく教導していただきたいと願っています。

他にも、重要なご発言がたくさん含まれていました。別途、何らかの折にご紹介できればと思います。